アントアネットはきわめて純潔だったから、弟の精神中に起こってることを長く知らないでいた。がある日突然気づいた。
 オリヴィエは彼女が外出してることと思っていた。通例その時刻に彼女は出稽古《でげいこ》をしていた。ところがつい少し前に、彼女は弟子《でし》から一言の手紙を受けて、今日は来ていただかなくてもよいと知らせられた。それは乏しい予算から数フラン引き去ることではあったが、彼女はひそかにうれしかった。そしてたいへん疲れていたので寝床に横たわった。気がとがめずに一日休息し得るのが楽しかった。オリヴィエが学校から帰って来た。友人が一人ついてきた。彼らは隣室にすわり込んで話しだした。その言葉がすっかり聞き取れた。彼ら二人きりだと思って遠慮していなかった。アントアネットは微笑《ほほえ》みながら、弟の快活な声に耳を傾けた。がやがて、彼女は微笑をやめた。血のめぐりが止まったかと思われた。彼らは生々《なまなま》しい嫌《いや》な言葉でひどい事柄を話していた。それを喜んでるがようだった。オリヴィエの、あのかわいいオリヴィエの、笑い声が聞こえた、潔白だと信じていた彼の唇《くちびる》から、聞くもぞっとするほど
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