、やって来て低い椅子《いす》にすわった。それもピアノのそばにではなく――(なぜなら、彼は演奏中そばにだれかがいることを許し得なかった)――暖炉のそばにであった。そしてそこで、子|猫《ねこ》のようにかがみ込み、背をピアノの方に向け、一塊の練炭が音もなく燃えつきてゆく炉の赤い輝きに眼をすえながら、過去の事柄をうっとりと思い浮かべていた。九時が打つと彼女は無理にも、もうよす時間だとオリヴィエに知らせなければならなかった。彼にその演奏をやめさせるのはつらいことだったし、また自分もその夢想から覚めるのはつらいことだった。しかしオリヴィエにはまだ晩の勉強が残っていたし、寝るのがあまり遅れてもいけなかった。けれど彼はすぐには言うことをきかなかった。音楽をやめて真面目《まじめ》に仕事にかかるには、いつもしばらく時がかかった。彼の考えは他の方面へうろついていた。そのぼんやりした心持から脱しないうちに、三十分が鳴ることがしばしばだった。アントアネットは机の向こう側で、かがみ込んで仕事をしながらも、彼が何にもしていないことを知っていた。けれど、彼を監視してるようなふうをしながら、彼の気分をいらだたせはすまい
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