はその手をやさしくなでてやった。
「さあ、」と彼女は微笑《ほほえ》みながら言った、「しっかりなさいよ。」
彼も微笑みを浮かべて、また食べ始めた。食事はそういうふうにして終わってゆき、彼らは口をきこうとつとめもしなかった。彼らは沈黙に飢えていた。……しまいに、ようやく休らった心地がし、各相手のつつましい愛情に包まれて、その日のよごれた印象が一身から消え去った心地がするとき、初めて彼らの舌は少しほどけてくるのだった。
オリヴィエはピアノについた。アントアネットはいつも自分でひかないで、彼にばかりひかせておいた。なぜなら、ピアノをひくのが彼の唯一の慰みだった。そして彼は全力を尽くしてひいた。彼は音楽にたいしてりっぱな天分をそなえていた。活動するよりも愛するのに適した彼の女性的な天性は、自分が演奏する音楽家らの思想にやさしく結びつき、それといっしょに融《と》け合い、そのもっとも微細な色合いをも熱心な忠実さで演奏し出した――がそれも、彼の弱い腕と息との許すかぎりにおいてであって、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]やベートーヴェンの後期の奏鳴曲《ソナタ》などをひく非常な努力には、腕は折れそう
前へ
次へ
全197ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング