い人間でも凡庸な人間でもなかった。それで激しい苦悶《くもん》の危機を通ったのだった。しかし彼はなお神秘な心を失わなかった。そして、いかに無信仰になったとはいえ、彼の思想は姉の思想にもっとも近いものだった。彼らはどちらも宗教的|雰囲気《ふんいき》のうちに生きていた。一日離れていたあとで各自に夕方帰ってくると、彼らの小さな部屋は彼らにとって、一つの港であった。貧しくはあるが清浄な犯しがたい避難所であった。彼らはその中にあって、パリーの腐敗した思想から、いかに遠く離れてる心地がしたことだろう!……
彼らは自分がした事柄については多く話さなかった。疲れて家に帰って来る時には、苦しかった一日のことを話してそれをまた思い起こすことは、好ましくないものである。彼らは知らず知らずに、その日のことをいっしょに忘れようとつとめていた。ことに夕食のおりに顔を合わせてしばらくの間は、たがいに尋ね合うことを差し控えた。ただ眼つきで挨拶《あいさつ》をかわした。ときとすると、食事中一言もいわないことさえあった。アントアネットは弟をながめた。弟は昔小さかったときのように、皿《さら》を前にしてぼんやり考えていた。彼女
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