ものを、心のうちに残していた。彼らは人生を美しいものと見なさなかった。人生の困難を軽く見んとつとめるどころか、かえってその困難を多くなして、不平を言う権利を得たがっていた。リュシー・ド・ヴィリエもそういう性質を多少もっていたが、それは、夫のあまり精練されていない楽天思想と相反するものだった。彼女は背が高く、夫より頭だけ高く、痩《や》せていて、姿がよく、着物の着こなしが上手《じょうず》だったが、いくらか堅苦しい容姿であって、いつも――わざとかもしれないが――実際以上に老《ふ》けて見えた。彼女は道徳的にはきわめてすぐれていた。しかし他人にたいしては厳格だった。いかなる過失も許さなかったし、ほとんどいかなる悪癖をも許さなかったので、冷淡な傲慢《ごうまん》な女だと人から見られていた。非常に信心深かったが、それが絶えざる夫婦|喧嘩《げんか》の種となった。それでも彼らはたいへん愛し合っていた。しばしば言い争いながらも、たがいに離れることができにくかった。彼らは二人とも実務家ではなかった、彼は心理の方面に欠けてるところがあるために――(彼はいつも温顔や甘言に欺かれがちだった)――彼女は業務にまったく無経験なために――(彼女はいつも業務から遠ざかっていたので興味ももたなかった)。
彼らには二人の子があった。アントアネットという娘と、それより五つ年下のオリヴィエという息子《むすこ》とだった。
アントアネットはきれいな栗《くり》色髪の子で、上品で正直なフランス式の小さな丸顔、敏捷《びんしょう》な眼つき、つき出た額《ひたい》、ほっそりした頤《あご》、まっすぐな小さな鼻――フランスのある古い肖像画家がいみじくも言ったとおり、「きわめて美しい細い上品な鼻の一つ、顔つき全体を活気だたせるような、また、話したり聴《き》いたりするにつれて内部に起こる微細な感情を示すような、あるかすかな細かい動きを見せる鼻、」であった。彼女は快活さと無頓着《むとんじゃく》さとを父から受けていた。
オリヴィエは花車《きゃしゃ》な金髪の子で、父に似て背は低かったが、性質は父とまったく異なっていた。彼の健康は、幼いころたえず病気をしたために、ひどく痛められていた。それだけにまた家じゅうの者から大事にされていたけれども、身体の虚弱なせいで早くから、死を恐れ生活力の弱い憂鬱《ゆううつ》な夢想的な少年となってしまった。人|馴《な》れないのと趣味とで、いつも一人ぽっちだった。他の子供たちと遊ぶのを避けた。彼らといっしょにいると不快だった。彼らの遊戯や喧嘩《けんか》をきらい、彼らの乱暴を恐れた。勇気に乏しいせいではないが、内気なせいで、彼らからなぐられるままになっていた。身を守るのが恐《こわ》かったし、他人を痛めるのが恐かったのである。もし父親の社会的地位から保護されなかったら、いじめられどおしだったかもしれない。彼は心がやさしくて、病的なほど感じやすかった。ちょっとした一言を聞いても、ちょっと同情されても、ちょっと叱《しか》られても、すぐに涙を出した。彼よりもずっと健全だった姉は、いつも彼を笑って、小さな泉と呼んでいた。
二人の子供は心から愛し合っていたが、いっしょに生活するにはあまりに性質が異なっていた。各自に勝手な方向へ走って、自分の空想を追っていた。アントアネットは大きくなるにつれて、ますますきれいになった。人からもそう言われ、自分でもそれをよく知っていた。そのために心楽しくて、すでに未来の物語《ロマンス》までみずから描いていた。オリヴィエは病身で陰気であって、外界と接触することにたえずいらだちを感じた。そしては自分の荒唐無稽《こうとうむけい》な小さい頭脳の中に逃げ込んで、いろんな話をみずから考え出した。愛し愛されたい激しい女らしい欲求をもっていた。同年輩の者たちから離れて一人ぽっちで暮らしながら、二、三の想像の友だちをこしらえ出していた。一人はジャンといい、も一人はエティエンヌといい、も一人はフランソアといった。彼はいつもそれらの友だちといっしょにいた。それで、近所の友だちといっしょには決してならなかった。彼はよく眠らなかったし、たえず夢をみた。朝になって寝床から引き起こされても、ぼんやり我れを忘れていて、裸のままの小さい両足を寝台の外にたれたり、またしばしば、一方の足に靴下《くつした》を二枚ともはいたりした。盥《たらい》の中に両手をつき込んで我れを忘れてることもあった。物を書きかけながら、学課を勉強しながら、机に向かったままで我れを忘れてることもあった。幾時間も夢想にふけっていて、そのあとで突然、何にも学び知っていないのに気づいてびっくりした。食事のときに、人から言葉をかけられてはまごついた。尋ねかけられてから一、二分間もたって返辞をした。文句の途中で何を言うつもりだっ
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