たのかわからなくなった。彼は自分の思想の囁《ささや》きのうちに、また、ゆるやかにたってゆく田舎《いなか》の単調な日々の親しい感覚のうちに、ぼんやり浸り込んでいた。一部分にしか人の住んでいない半ば空《むな》しい大きな家、大きな恐ろしい窖《あなぐら》や屋根裏、様子ありげに閉《し》め切られてる室、閉ざされてる雨戸、覆《おお》いのしてある家具、布が掛けられてる大鏡、包まれてる燭台《しょくだい》、または、変に気をひく微笑を浮かべてる古い家族の肖像、あるいは、高潔でかつ猥《みだ》らな勇武を示してる帝国式の版画、娼家《しょうか》におけるアルキビアデスとソクラテス[#「におけるアルキビアデスとソクラテス」に傍点]、アンチオキュスとストラトニス[#「アンチオキュスとストラトニス」に傍点]、エパミノンダスの話[#「エパミノンダスの話」に傍点]、乞食《こじき》のベリザリウス[#「のベリザリウス」に傍点]……。家の外には、真向《まむ》かいの鍛冶《かじ》場で蹄鉄《ていてつ》を鍛える音、鉄砧《かなしき》の上に落ちる金槌《かなづち》のとんちんかんな踊り、鞴《ふいご》のふうふういう息使い、蹄《ひづめ》の焼かれる匂《にお》い、水辺にうずくまってる洗濯《せんたく》女の杵《きね》音、隣家の肉屋の肉切包丁の鈍い音、街路の舗石に鳴る馬の足音、ポンプのきしる音、運河の上の回転橋、高い庭の前を綱でひかれておもむろに通ってゆく、木材をいっぱい積んだ重い舟の列、方形の花壇を一つそなえてる、小さな石だたみの中庭、花壇の中にゼラニュームやペチュニアの茂みの間から伸び出てる、二株のリラ、運河を見おろす覧台《テラース》の上に花咲いてる、月桂樹《げっけいじゅ》と柘榴《ざくろ》との鉢《はち》、時としては、近くの広場に開かれる市《いち》の擾騒《じょうそう》、ぎらぎらした青服の百姓、鳴き立てる豚……。そして日曜日には、教会堂で、調子はずれの歌い方をしてる唱歌隊、ミサを唱えながら居眠りをしてる老司祭、または、停車場へ通ずる並木道を、一家打ちそろって散歩する人たち――彼らは、大袈裟《おおげさ》に帽子をぬいで他の不幸な人たちと会釈をかわしながら、その時間をつぶし、不幸な人たちの方でもまた、いっしょに散歩しなければならないように考え、そして一同は、眼に見えないほど空高く雲雀《ひばり》が舞っている日に照らされた田野まで、あるいは、両側にポプラが立ち並んでそよいでる鏡のように淀《よど》んだ運河に沿って、散歩をつづける……。それから、たいへんな晩餐《ばんさん》、長たらしい食事――その間、ひとかどの見識と歓喜とをもって食物のことが話される。皆その道の通人ばかりだし、また、田舎《いなか》では貪食《どんしょく》ということが、おもな仕事でありすぐれた技術だからである。その他、事業のことや露骨な冗談や時には病気のことなども、仔細《しさい》にわたってはてしなく口にのぼせられる……。子供のオリヴィエは、片隅《かたすみ》の席について、鼠《ねずみ》の子ほどの音もたてず、ぽつぽつかじるだけで、ほとんど食べもせず、耳を澄まして聞いていた。何一つ聞き漏らさなかった。よく聞き取れないところは想像で補った。幾世紀もの印象が強く刻み込まれてる古い種族の古い家庭の子供らには、しばしば特殊な才能が認められるものであるが、彼もそういう天賦の才能をもっていて、かつて頭に浮かべたこともなければまたほとんど理解もしがたいほどの思想をも、よく察知することができるのだった。――それからまた、血のしたたる汁気《しるけ》のある不思議な物がこしらえられる料理場もあり、ばかげた恐ろしい噺《はなし》をしてくれる老婢《ろうひ》もいた……。ついに晩となる。音もなく飛び回る蝙蝠《こうもり》、また、古い家の内部に動めいてるのがよくわかる恐ろしい怪物、大きな鼠《ねずみ》や毛の生《は》えた大|蜘蛛《ぐも》など、それから、何を言ってるのか自分でもよくわからない、寝台の足もとでの祈祷《きとう》、尼たちの就寝時間を告げる近くの僧院の小さい鐘の急な音。そして、白い寝床、夢の小島……。
 一年じゅうでもっとも楽しい時期は、春と秋とに、町から数里隔たった自家の所有地で暮らす時だった。そこでは気ままに夢想することができた。だれにも会わないでよかった。小さな中流人士の多くと同様に、二人の子供は、婢僕《ひぼく》や農夫などの平民たちから遠ざかっていた。二人は彼らに会うと、多少の恐れと嫌悪《けんお》とを心の底に覚ゆるのだった。手先の労働者らにたいする、貴族的な――あるいはむしろ、まったく中流人的な――軽侮の念を、二人は母から受けていた。オリヴィエは秦皮《とねりこ》の枝の間に登って、不思議な話を読みながら日を過ごした。愉快な神話、ムゼウスやオールノア夫人の小話[#「小話」に傍点]、千一夜物語[#
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