「千一夜物語」に傍点]、旅行小説、などを読んだ。フランスの田舎《いなか》の小さい町の少年をときどき苦しめる、遠い土地にたいする怪しい郷愁、「あの大洋の夢」、それを彼もやはりもっていたのである。枝葉の茂みにさえぎられて家が見えなかったので、彼はごく遠い所にいるのだと思うことができた。それでも、すぐ近くにいることを知っていて、少しも不安ではなかった、というのは、一人きりで遠くへ離れることをあまり好まなかったから。彼は自然の中に埋もれた心地がしていた。周囲には樹木が波打っていた。木の葉がくれに遠く、黄色がかった葡萄《ぶどう》畑が見え、また牧場も見えた。斑《まだら》の牝牛《めうし》が牧場の草を食べていて、そのゆるやかな鳴き声は、うつらうつらしてる田舎の静けさを満たしていた。鋭い声の雄鶏《おんどり》が農家から農家へ答え合っていた。納屋《なや》の中の連枷《からざお》の不規則な律動《リズム》が聞こえていた。そして、万象のかかる平和の中にも、無数の生物の熱烈な生活が満々と流れつづけていた。オリヴィエは気がかりな眼で見守った、いつも急いでる蟻《あり》の縦列、オルガン管のような音をたてながら重い分捕品をになってる蜜蜂《みつばち》、何をするつもりか自分でもわからないでいる愚かないばりくさってる地蜂など――すべて、忙がしげな動物の世界を。彼らはどこかへ到着したくてたまらながってるように見えた……。どこへか? 彼らもそれを知らない。どこでも構わないのだ。ただどこかへ……。オリヴィエは、その盲目で敵意に満ちた世界のまん中にあって、ぞっと身を震わした。松ぼっくりの落つる音にも、枯れ枝の折れる音にも、小兎《こうさぎ》のように飛び上がった……。そしては、庭の向こう端に、ぶらんこの鉄輪の音を耳にして、ほっと安堵《あんど》した。ぶらんこには、アントアネットが猛然と身を揺すっていた。
彼女も夢想にふけっていた。しかしそれは彼女一流の仕方でだった。貪欲《どんよく》で好奇心に富み笑い好きな彼女は、庭じゅうを捜し回って一日を過ごした。鶫《つぐみ》のように葡萄《ぶどう》の実を盗み食いし、果樹|墻《がき》から桃《もも》をひそかにもぎ取り、梅の木によじ登り、あるいは通りがかりにそっと梅の幹をたたいて、口に入れると香《かお》りある蜜のように融《と》ける金色の小梅を、雨のように振り落とした。あるいはまた、禁じられてるにもかかわらず花を摘み取った。朝から眼をつけてる薔薇《ばら》の花を素早くもぎ取り、それをもって庭の奥の亭《ちん》へ逃げ込んだ。そして酔うような強い香りの花の中に、歓《よろこ》ばしげに小さな鼻をつき込み、それに接吻《せっぷん》し、それを口に噛《か》み、その汁を吸った。それからその盗み花を隠し、二つの小さな乳房の間に襟《えり》元から押し込んだ、はだけてるシャツへ乳房がぽつりとふくらんでるのを、珍しげにうちながめた……。なお、禁ぜられてるも一つのえも言えぬ快楽は、靴《くつ》と靴下とをぬいで、小径《こみち》の冷やかな細かな砂の上、芝地のぬれた草の上、日影の冷たい石の上や日向《ひなた》の熱い石の上、森はずれを流れる小川の中などを、素足のまま歩き回り、足先や脛《すね》や膝《ひざ》などを、水や土や光にさらすことだった。樅《もみ》の木影に横たわっては、日光に透きとおってる手をながめ、細やかで豊かな腕のなめらかな肌《はだ》を、何心なく唇《くちびる》でなで回した。蔦《つた》の葉や樫《かし》の葉で、冠や頸環《くびわ》や長衣をこしらえた。青い薊《あざみ》の花や赤い伏牛花《へびのぼうず》や緑色の実のなってる樅の小枝などを、それに突きさした。まるで野蛮国の小さな女王みたいだった。そしてただ一人で、噴水のまわりを跳《は》ねた。両腕を広げてぐるぐる回り、ついには眼が回ってき、芝生《しばふ》のうちにうち倒れ、草の中に顔を埋め、幾分間も笑いこけて、みずから笑いやめることもできず、またなぜ笑うかもみずからわからなかった。
かくて二人の子供の日々は過ぎていった。たがいに少し遠ざかって相手を気にもかけなかった。――がときどきアントアネットは、通りがかりに弟へちょっと悪戯《いたずら》をしてみたくなり、ひとつかみの松葉を彼の鼻先へ投げつけ、落っことしてやるとおどかしながら彼が登ってる木を揺すり、あるいは、恐《こわ》がらすために突然彼へ飛びついて叫んだ。
「そら、そら……。」
彼女はときとすると、彼をからかいたくてたまらなくなった。母が呼んでると言って彼を木から降りさした。彼が降りて来るとそのあとに登って、もう動こうとしなかった。オリヴィエは不平で、言っつけてやるとおどかした。しかしアントアネットが長く木に登ってる心配はなかった。彼女は二、三分間もじっとしてることができなかった。枝の上からオリヴィエを笑ってやり
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