四旬節祭の説教者に、無邪気な悪戯《いたずら》をしたりすることを、ごく面白がっていた。実際、フランスの小都市のかかる反僧侶主義は、いつも多少なりと家庭不和の一事であって、ほとんどすべての家に起こる夫婦間の激しい暗闘の陰険な一形式であることを、忘れてはいけないのである。
アントアーヌ・ジャンナンはまた、文学上の抱負をもっていた。同時代の地方の人々はたいていそうであったが、彼もやはりラテンの古典に養われて、その数ページやたくさんの諺《ことわざ》を暗記していた。その他、ラ・フォンテーヌ、ボアロー――ボアローの詩論[#「詩論」に傍点]やことに譜面台[#「譜面台」に傍点]――オルレアンの少女[#「オルレアンの少女」に傍点]の著者、フランス十八世紀の小詩人ら、などからも養われていた。そういう趣味の詩を作ることに骨折っていた。彼の知人の範囲内では、そういう嗜癖《しへき》をもってるのは彼一人ではなかった。そして彼はこの点でも名声を得ていた。彼の諧謔《かいぎゃく》詩、四句詩、題韻詩、折句詩、諷《ふう》詩、歌謡詩、などは幾度も人々の口にのぼった。それらは往々にしてかなり危《あぶな》っかしいものだったが、露骨なある種の機才がないでもなかった。消化作用の神秘も歌い忘れられていなかった。ロアール河のほとりのこの詩神は、好んで荘重な語気を使っていた、それもダンテの名高い悪魔のような調子で、
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「……彼はその[#「彼はその」に傍点]尻《しり》をらっぱとしていた[#「をらっぱとしていた」に傍点]……」
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この強健で活発快活な小さな男は、まったく性質の違った女――その土地の司法官の娘で、リュシー・ド・ヴィリエという女を娶《めと》った。ド・ヴィリエというのは、むしろドゥヴィリエというべきであるが、小石が坂をころがり落ちながら二つに割れるように、途中で二つに裂けてしまったのである。でこのド・ヴィリエ家の人たちは、代々司法官であった。法律、義務、社交的儀礼、完全な正直さで固められ多少道学者めいた気味のある個人の品位、ことに職業的品位、などについて高い観念をもっている、フランスの議会関係の古い家柄、その一つだった。前世紀において、彼らは、不平がちなジャンセニスムにもまれたので、ジェズイット精神にたいする軽蔑《けいべつ》とともに、悲観的な、多少不満がちなある
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