んこ》の音がし、荒々しい哄笑《こうしょう》の声が湧《わ》きたった。その快活な騒ぎは、台所の召使どもにも感染し、表を通りかかる人々にも感染していった。
 その後、オーギュスタン老人は、ごく暑い夏のある日、葡萄《ぶどう》酒を瓶《びん》につめようと思いたって、シャツ一つになって窖《あなぐら》へ降りていったが、そのとき肺炎にかかった。そして二十四時間とたたないうちに、あまり信じてもいないあの世へ旅だってしまった。もとより教会のあらゆる秘蹟《サクラメント》は行なわれたが、それも田舎《いなか》のヴォルテール主義者である善良な中流人士としてであって、女どもからかれこれ言われないために、臨終のおりされるままに任したのだった。彼にとってそれはどの道同じことだったし……また、死後のことはわかるものではない……。
 息子のアントアーヌがその業務を引き継いだ。でっぷりした赭《あか》ら顔の快活な小男で、剃《そ》り残してる長めの頬髯《ほおひげ》、聞き取れないほどの早口――いつも騒々しくって、ちょこちょこ動き回っていた。彼は父ほどの経済的知力をもってはいなかったが、監理者としてはかなりの腕をもっていた。着手されてる事業を静かにつづけてゆきさえすればよかった。それは単に継続されてるというだけで、盛んになっていった。彼はその地方で手腕家との評判を得ていたが、事業の成功は彼の力ではほとんどなかった。彼はただ秩序と精励とを事としたばかりだった。それに彼はまったく誉《ほ》むべき人物であって、至当な尊敬の念をだれにも起こさせた。その態度が、ある人にたいしては馴《な》れ馴れしすぎるくらいであり、やや大袈裟《おおげさ》で、多少平民的で、まったく円滑親切だったので、その小さな町や近傍の田舎《いなか》では、りっぱな人だとの評判を得ていた。金使いは荒くなかったが、感傷癖のためにしまりがなかった。すぐに涙を眼に浮かべた。悲惨な様を見ては深く心を動かして、その悲惨に会ってる者をいつも感動さした。
 小都市に住んでいる多数の者と同様に、彼も政治のことをたいへん念頭に置いていた。彼はごく温和な共和主義者であり、頑固《がんこ》な自由主義者であり、愛国者であり、また父にならって極端な反僧侶《はんそうりょ》主義者であった。彼は町会の一員だった。そして彼はその同僚とともに、教区の司祭をからかったり、町の婦人間に多くの感激を起こさせる
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