善良な乳母の乳を飲んでいた、「愛と悲惨[#「愛と悲惨」に傍点]」との乳を。

 彼はかかる意志の弛緩《しかん》中、他人に近づきたい欲求を感じた。まだ身体がごく弱かったけれども、そして無用心なことではあったけれども、彼は朝早く、人口|稠密《ちゅうみつ》な街路から群集の波が遠くの仕事場へ流れ出すころ、または夕方、その人波がもどってくるころ、外へ出かけてみた。彼は人情の慰安の風呂《ふろ》に浸りたかった。それでもだれかに口をきくでもなかった。口をきくことを求めもしなかった。人々が通るのをながめその心中を察し彼らを愛することだけで、彼には十分だった。彼は愛情のこもった憐憫《れんびん》の眼で観察した、前もってその日の仕事に疲れてるような様子で、足を早めてる労働者らを――艶《つや》のない顔色をしきびしい表情を見せ変な微笑を浮かべてる、青年男女の顔つきを――移り気な欲望や懸念《けねん》や皮肉などの波の過ぎるのがよく見て取られる、変化の多い透き通った顔を――機敏な、あまりに機敏な、多少病的な、大都市のその民衆を。彼らは皆、男は新聞を読みながら、女は三日月形のパンをかじりながら、早く歩いていた。うとうとと
前へ 次へ
全387ページ中370ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング