した。普通のきまり文句で彼の健康を尋ねた。そして彼が何か言い出すのをも待たないで、事務室の扉《とびら》を指《さ》し、身を退けて彼を通した。ヘヒトはこの訪問を内心喜んだ。傲慢《ごうまん》のあまりそれを予知してはいたが、もう期待してはいなかったのである。彼はひそかにクリストフの行動を注意深く探っていた。クリストフの音楽を知るべき機会は一度ものがさなかった。噂《うわさ》の高いダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]演奏会にも臨んでいた。彼は聴衆を軽蔑《けいべつ》していたので、その作にたいする聴衆の敵意ある冷遇をさほど驚きはしなかったが、作の美点は残らず完全に感じたのだった。クリストフの芸術的独創性をヘヒト以上によく鑑賞し得る者は、おそらくパリーに幾人もなかったであろう。しかしヘヒトは、それをクリストフに言いたがらなかった。自分にたいするクリストフの態度が癪《しゃく》にさわっていたばかりでなく、親切な様子を見せることがまったくできなかったのである。彼は生来特別に無愛想な男だった。心からクリストフを助けるつもりではいたが、そのために一歩の労も取りたくはなかった。クリストフの方から助力を求めに来るのを待っ
前へ 次へ
全387ページ中322ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング