深く空気を呼吸することが必要だったのである。その窓からは、パリーの立ち並んだ煙突がずっと見渡せた。移転は手間取らなかった。荷車一つで十分だった。クリストフはみずからその荷車をひいた。道具の中で彼にとって最も貴重なのは、古いかばんとベートーヴェンの面型《マスク》とであった。この面型《マスク》は、その後世に広まった鋳物の一つだったが、彼はそれを、最も高価な美術品ででもあるかのように、ごくていねいに包み上げていた。手元から少しも離さなかった。それは彼にとって、パリーの大洋中における小島であった。また、精神上の晴雨計でもあった。彼の魂の天候を、彼のごくひそかな思想を、彼がみずから意識してる以上にはっきりと示してくれた。あるいは雲に閉ざされた空を、あるいは熱情の突風を、あるいは力強い静穏を示してくれた。
彼は食物を非常に節約しなければならなかった。日に一回、午後一時に食事をすることにした。大きな腸詰《ちょうづめ》を買って窓につるしておいた。その厚ぼったい肉片、堅い一片のパン、手製のコーヒー一杯、それだけで彼は山海の珍味とした。しかしそれを二人分も食べたかった。彼は自分の貪食《どんしょく》に腹が
前へ
次へ
全387ページ中320ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング