知らなかった。仕事がないために、様子ぶるために、楽しみのために、終日ピアノをたたきちらしていた。あるいは自転車をでも取扱うようなふうにやることもあった。あるいは趣味と魂とをこめてごくうまくひくこともあった。――(彼女は一つの魂をもってるとも言えるほどだった。しかしそれには、一つの魂をもってるだれかの地位に身を置けば十分なのであった)――彼女はクリストフを知る前には、マスネー、グリーグ、トーマ、などを好むこともできた。しかしクリストフを知ってからは、そういう人々をもう好まないこともできた。そして今ではバッハやベートーヴェンをごく正しくひいていた――(実を言えばそれは大したことでない)――しかしいいことには、彼女は彼らを好んでいた。が結局は、彼女が好んでいたものは、ベートーヴェンでもトーマでもバッハでもグリーグでもなかった。それは、音符をであり、音響をであり、鍵盤《けんばん》の上を走る自分の指をであり、神経の弦を刺激する弦の震えをであり、快感をそそるそのくすぐりをであった。
 貴族的な邸宅の客間の中は、やや色|褪《あ》せた壁布で飾られていて、室のまん中の画架の上には、強健なストゥヴァン夫人
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