散らかってるまん中に机の上にそれを置いた。クリストフは、彼女が出て行くのを待って、苦しい話をまた始めた。言いつづけるのにたいへん骨が折れた。
 ハスレルは盆を自分の前に引き寄せていた。彼はコーヒーをついで唇《くちびる》をつけた。それから馴《な》れ馴れしい人のいいやや軽蔑《けいべつ》的な様子で、クリストフの話の途中をさえぎって、彼に勧めた。
「一杯どうだい。」
 クリストフは断わった。彼は文句の筋道をつなごうと骨折っていた。しかしますますまごついてきて、もう何を言ってるのかみずからわからなくなった。ハスレルの様子に気を奪われていた。ハスレルは皿《さら》を頤《あご》の下に置き、バタつきのパンやハムの切れを指でつまみ上げては、子供のように頬張《ほおば》っていた。でもクリストフはようようのことで、自分は作曲をしてるということや、ヘッベルのユーディット[#「ユーディット」に傍点]にたいする序曲を演奏さしたことがあるなどと、話すことができた。ハスレルは気も止めずに聞いていた。
「何を?」と彼は尋ねた。
 クリストフは序曲の題名をくり返した。
「ああ、なるほど。」とハスレルは言いながら、パンと指先とをいっしょにコーヒーの中に浸した。
 それきりだった。
 クリストフはがっかりして、立ち上がって帰ろうかとした。しかし長い旅行が無駄《むだ》になることを考えた。そして勇気を振るい起こしながら、自分の作を少しひいてお聞かせしたいと、口ごもりながら申し出た。その一言を聞くや否やハスレルはさえぎった。
「いやいや、僕にはわからないよ。」と彼は愚弄《ぐろう》的な多少侮辱的な皮肉の調子で言った。「それにまた、暇がないからね。」
 クリストフは眼に涙を浮かべた。しかし彼は、自作にたいするハスレルの意見を聞かないうちは、ここから出て行かないとみずから誓っていた。彼は困惑と憤慨との交った調子で言った。
「失礼ですが、あなたは昔、私の作を聞いてくれるとお約束なさいました。私はただそのために、ドイツの奥からやってまいったのです。どうか聞いてください。」
 ハスレルはそういう応対に馴《な》れていなかった。怒《おこ》って顔を赤らめ泣かんばかりになってるその無作法な青年を、彼はながめた。そして面白く思った。彼は懶《ものう》げに肩をそびやかしながら、指でピアノを指し示し、おかしな諦《あきら》めの様子で言った。
「では……やってみたまえ……。」
 そこで彼は、仮睡をでもしようとする者のように、安楽|椅子《いす》の中に身を埋め、拳固《げんこ》で羽蒲団《はねぶとん》を打ちたたき、その平らな上に両腕を伸ばし、半ば眼を閉じたが、クリストフがポケットから取り出した巻いた楽譜の量を測るために、またちょっと眼を見開き、小さな溜息をもらし、そして厭々《いやいや》ながら聞くことにした。
 クリストフは気おくれがし慴《ふる》えながらも、演奏し始めた。すると間もなくハスレルは、美しいものに我れ知らず心ひかれる芸術家の職業的な興味をもって、眼と耳とをうち開いた。最初はなんとも言わないで、じっとしていた。しかしその眼は前よりはっきりしてき、そのむっつりした唇は動いてきた。次に彼はまったく本気に返って、驚きと感嘆との声をもらした。それはぼんやりした間投詞だけだった。しかしその調子は、彼の感情を明らかに示していた。クリストフは言い知れぬうれしさを感じた。ハスレルはもはや、ひかれたページや残ってるページの数を測ろうとしなかった。クリストフが一曲をひき終わると、彼は言った。
「それから……それから……。」
 彼は人間らしい言葉を使い始めていた。
「それはいい、いい!……(彼は感嘆していた)……すてきだ……恐ろしくすてきなものだ!……だがいったい(彼は驚いてつぶやいていた)どうしたんだ?」
 彼は座席に身を起こし、頭を前方に差し出し、手を耳にかざし、独語をし、満足げに笑い、そしてある珍しい和声《ハーモニー》の箇所になると、唇《くちびる》をなめようとでもするようにちょっと舌を出した。不意の転調に、彼は非常に動かされて、感嘆の一語をもらしながら急に立ち上がり、ピアノのところへ来てクリストフのそばにすわった。クリストフがそこにいることにも気づかないらしかった。彼は音楽のことばかりを念頭においていた。その一曲が済むと、彼は楽譜帳を取り上げ、ページを読み返し始め、それから次々にページを読んでゆきながら、賞賛と驚きとの独語を言いつづけ、あたかも室には自分一人きりであるかのようだった。
「驚いた!……(彼は言っていた)……此奴《こいつ》はどこからこんなものを見つけ出したのかな……。」
 彼は肩でクリストフを押しのけ、みずから数節をひいてみた。ピアノにおける彼の指先は、きわめてやさしくしなやかで軽くみごとだった。クリストフは、彼の華奢《きゃしゃ》な長いよく手入れの届いた両手を認めた。それは彼の身体つきに似合わない、多少病的な貴族味をそなえていた。ハスレルはある和音のところでひき止め、瞬きをしたり音を鳴らしたりしながら、それをくり返しひいた。彼は種々の楽器の音を真似《まね》ながら、唇《くちびる》でやかましく音をたて、またたえず勝手な激語を音楽に交えていた。その激語には好悪の情がともにこもっていた。ひそかないらだちを、それとなき嫉妬《しっと》の念を、彼はみずから禁ずることができなかったのである。そしてまた同時に、貪《むさぼ》るように享楽していたのである。
 彼はあたかもクリストフがそこにいないかのように、なお独語をばかりつづけていたが、クリストフはうれしさに真赤《まっか》になりながら、ハスレルの賛辞は自分にたいしてなされてるのだと思わずにはいられなかった。そして彼は、自分が何を作るつもりだったかを説明しだした。ハスレルは初めのうち、その青年が言ってることにはなんらの注意も払わないらしく、大声で自分一人の考えを言いつづけていた。が次に、クリストフのある言葉にはっとした。彼はさあらぬ体を装《よそお》って耳を傾けながら、めくってる楽譜になお眼をすえたまま、口をつぐんでしまった。クリストフの方は、次第に元気になっていた。そしてすっかり信頼してしまった。彼は無邪気な興奮をもって、自分の抱負や身の上を語った。
 黙々としていたハスレルは、またも皮肉な様子をしだした。彼は心ひかれてる楽譜から指を離した。ピアノの棚《たな》に肱《ひじ》をかけ、手に額《ひたい》を置いて彼は、年少の客気と惑乱との調子で自作の注釈をしてるクリストフを、ながめてやっていた。そして自分の初めのころのことや、自分の希望や、クリストフの希望や、彼の前途に待ち受けてる苦しみなどを、考えながら、苦笑を浮かべていた。
 クリストフは言うべきことを忘れやしないかと恐れながら、眼を伏せて話していた。ハスレルが黙ってるので力を得ていた。ハスレルが自分を見守ってること、自分の一言をも漏れなく聞いてることを、彼は感じていた。二人を隔てていた氷が砕けたように思われて、心が輝かしくなっていた。語り終わると、おずおずと――また信頼しきって――顔を上げ、ハスレルをながめた。そして自分を見すえてる陰鬱《いんうつ》な嘲笑的な好意なき眼を見た時、湧《わ》きかけていた彼の喜びはことごとく、あまりに早い若芽のように一時に凍えてしまった。彼は口をつぐんだ。
 ちょっと冷やかな間を置いてから、ハスレルは冷淡な声で口を開いた。彼はふたたび変わってしまったのである。彼は相手の青年にたいして一種の酷薄さを装《よそお》っていた。相手のうちに自分の昔の姿を見出したので、みずから自分を嘲《あざけ》ろうとでもしてるかのように、その抱負や成功の希望などを、残酷に嘲笑《あざわら》っていた。青年の人生にたいする信念を、芸術にたいする信念を、自己にたいする信念を、破壊してしまおうと冷酷にもつとめていた。苦々《にがにが》しげに自分自身を例にあげて、侮辱的な調子で現在の自作のことを話した。
「くだらない作ばかりだ。」と彼は言った。「くだらない奴らにはそれがちょうどいいんだ。音楽を愛する者が、世に十人といると君は思うか。一人もいないじゃないか。」
「私がいます。」とクリストフは熱心に言った。
 ハスレルは彼をながめ、肩をそびやかし、そして大儀そうな声で言った。
「君も皆と同じようになるだろう。皆と同じことをするようになるだろう。皆と同じように、成り上がったり楽しんだりすることを考えるだろう。……そして、それがもっともなんだ……。」
 クリストフは抗弁しようと試みた。けれどハスレルは彼の言葉をさえぎった。そして彼の楽譜をふたたび取り上げながら、先刻賞賛したその作品を、辛辣《しんらつ》に非難し始めた。青年の眼を逸した、実際上の粗漏を、書き方の不正確さを、趣味や表現の欠点を、ひどく厳重に指摘したばかりでなく、なお馬鹿げた非難を加え、ハスレル自身が生涯《しょうがい》苦しまなければならなかった、最も偏狭で最も時代におくれた音楽家らがなしそうな非難を、加えたのであった。いったい何を意味するのかと尋ねた。彼はもはや非難してるのではなかった。否定してるのであった。心ならずもそれらの作から受けた印象を、憎々しく消し去ろうとつとめてるかのようだった。
 クリストフはびっくりして、答えようとも試みなかった。尊敬し愛してる人の口から聞くには恥ずかしい無茶な言葉に、なんで答え返されよう。それにまたハスレルは少しも耳を貸さなかった。彼はそこにぴったりと頑張《がんば》って、楽譜を両手に閉じ、没表情な眼つきをし、苦々《にがにが》しげな口つきをしていた。がついに彼は、クリストフがいるのをふたたび忘れたかのように言った。
「ああいちばん悲しいことは、理解し得る人がいないことだ、一人もいないことだ。」
 クリストフは感動に身内を貫かれる心地がした。彼は急にふり向き、ハスレルの手の上に自分の手を置き、心は愛情でいっぱいになって、くり返した。
「私がいます!」
 しかしハスレルの手は少しも動かなかった。その若々しい叫びにたいして、彼の心の中で何物かが.一瞬間振るい立ったとしても、クリストフをながめてる彼の鈍い眼には、なんらの光も輝かなかった。皮肉と利己心とが勢いを占めていた。彼は儀式ばったおかしな様子で上半身をちょっと動かして、会釈の様子をした。
「ありがとう!」と彼は言った。
 彼はこう考えていた。
「勝手にするがいい! 貴様のために俺が生命を失ったとでも思ってるのか。」
 彼は立ち上がり、ピアノの上に楽譜を投げ出し、よろよろした長い足で、また安楽|椅子《いす》のところへ行ってすわり込んだ。クリストフは、彼の胸中を読み取り、不快な侮辱を感じながら、人は万人に理解される必要はないと昂然《こうぜん》として答えてみた。ある種の魂の人たちだけで全民衆に価する。彼らは民衆に代わって考えてくれる。そして彼らが考えたことを、かならず民衆は考えるようになると。――しかしハスレルはもう聞いていなかった。彼はまた茫然《ぼうぜん》自失の状態に陥っていた。それは彼のうちに眠ってる生命力の衰弱から来たものだった。クリストフはきわめて健全であって、そういう急激な変調を理解できなかったから、もう負けだということを漠然《ばくぜん》と感じた。しかし勝ちかけたように思ったすぐあとなので、あきらめることができなかった。彼は絶望的な努力をして、ハスレルの注意を呼び起こそうとつとめた。楽譜を取り上げて、ハスレルから指摘された不規則さの理由を、説明しようとつとめた。ハスレルは安楽|椅子《いす》に埋まって、陰鬱《いんうつ》な沈黙を守っていた。賛成もせず反対もしなかった。ただおしまいになるのを待っていた。
 クリストフは、もう仕方がないことを見て取った。文句の途中で言いやめた。楽譜を巻き納めて立ち上がった。ハスレルも立ち上がった。クリストフは恥ずかしくまた気おくれがして、口ごもりながら詫《わ》びを言った。ハスレルは傲慢《ごうまん》なまた退屈そうな品位を見せながら、軽く身をかがめ、冷やかにていねいに手を差し出し、
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