母は彼の様子を一通り見調べて、襟《えり》飾りをきちんと結び直してやった。彼はいつになくゆっくりしていた。なぜなら自分に満足していたから――そしてそれも、滅多にないことだった。出かけながら彼は、アデライド姫を誘拐《ゆうかい》しに行くのだと言った。それは大公爵の令嬢で、かなりきれいだった。ドイツのある小貴族に嫁しているが、数週間両親のもとへ帰って来ていた。昔クリストフが子供であったおり、彼に多少の同情を示してくれたことがあった。そして彼は彼女を好んでいた。ルイザは彼が恋してるのだと称していた。そして彼も冗談に、恋をしていた。
彼は早く官邸へ行きつこうともしないで、商店の前をぶらついたり、往来に立ち止まって馴染《なじ》みの犬の頭をなでてやったりした。犬も彼と同様に呑気《のんき》で、日向《ひなた》にねそべって欠伸《あくび》をしていた。彼は官邸の広場をめぐらしてる無役な鉄柵《てつさく》を飛び越した。――寂しい広い方形の地で、建物にとり囲まれ、水の涸《か》れてる二つの噴水があり、額《ひたい》の皺《しわ》のような一本の径《みち》で分かたれてる、木陰のない同形の二つの花壇があった。径には砂がかきならされていて、両側には木鉢《きばち》の橙樹《だいだい》が並んでいた。広場の中央には、四|隅《すみ》に徳をかたどった飾りのついてる台石の上に、ルイ・フィリップ式の服装をした、無名の大公爵の銅像が立っていた。ベンチの上にただ一人の散歩者が、新聞を広げたまま居眠っていた。官邸の鉄門のところには、無駄《むだ》な哨兵《しょうへい》らが眠っていた。邸前の高壇の馬鹿な溝《みぞ》の後ろには、眠ってる二門の大砲が、眠ってる町の上に欠伸《あくび》をしていた。クリストフはそれらのものの鼻先で笑ってやった。
彼は官邸へはいっても、公式の態度を取ろうとはしなかった。たかだか微吟をやめたばかりだった。なお楽想《がくそう》が踊りつづけていた。彼は玄関のテーブルの上に帽子を投げ出しながら、子供の時から知ってる受付の老人を親しげに呼びかけた。――(その好々爺《こうこうや》は、クリストフが祖父とともに初めて官邸へ伺って、ハスレルに会ったあの晩から、すでにその地位にいたのである。)――その老人は、クリストフの多少失礼な冗談にもよく答えるのを常としていたが、その時は、横柄《おうへい》な様子を示した。クリストフはそれに気を止めなかった。それから少し奥へ行って控室で、彼は文書局の役人に出会った。いつも彼に親愛の様子を見せながら、盛んにおしゃべりをする男だった。ところが、その男が話を避けて急いで通り過ぎたので、彼はびっくりさせられた。が彼はそれらのことにこだわらないで、なお進んでいって案内を求めた。
彼ははいっていった。午餐《ごさん》が終わったところだった。殿下は客間にいた。暖炉を背にして、客たちと話しながら煙草《たばこ》をふかしていた。客のうちにクリストフは、自分の[#「自分の」に傍点]姫を認めた。彼女も煙草をふかしていた。そして肱掛椅子《ひじかけいす》にしどけなく身をよせかけて、まわりを取り巻いてる将校らに声高く話していた。会合はにぎやかだった。皆はすこぶる愉快そうだった。そしてクリストフははいって行きながら、大公爵の幅広い笑い声を聞いた。しかしクリストフの姿が彼の眼にとまると、その笑い声はぴたりとやんだ。彼は一つ唸《うな》り声をたてて、じかにクリストフめがけて大声に浴びせかけた。
「ああ来たな。どの顔でやって来たのか。お前はこのうえ私《わし》を馬鹿にするつもりなのか。お前は実に悪者だ。」
クリストフは真正面に受けたその砲弾に茫然《ぼうぜん》として、ちょっとの間一言も発することができなかった。彼は自分の遅参のことばかり考えていた。遅参したとてかかる乱暴な目に会う訳はなかった。彼はつぶやいた。
「殿下、私は何かいたしたのでございますか。」
殿下は耳を貸さなかった。勢い激しく言い進んだ。
「黙れ。私《わし》は悪者から侮辱されはしないぞ。」
クリストフは蒼《あお》くなりながら、喉《のど》がつまって言葉が出ないのをもがいた。彼は一生懸命になって叫んだ。
「殿下は不当です……不当であります、私が何をしたかおっしゃらずに、私を侮辱されるのは。」
大公爵は私書官の方をふり返った。私書官はポケットから一枚の新聞を取り出して、それを大公爵に差し出した。大公爵はひどく激昂《げっこう》していた。例の怒りっぽい性質からと言うだけでは不十分だった。芳醇な酒気も加わっていた。彼はクリストフの前に来てつっ立ち、闘牛士が外套《がいとう》を打ち振るように、広げた皺くちゃの新聞をクリストフの顔の前に激しく振り動かしながら、叫んだ。
「汚らわしい行ないだ。……こんなものに顔をつっ込むのがお前にはよく似合ってる。」
クリストフはそれが社会主義の新聞であることを知った。
「私は別に悪いとは思いません。」と彼は言った。
「なに、なんだと!」と大公爵は金切声で叫んだ。「不謹慎な!……この恥知らずの新聞めは、毎日|私《わし》を侮辱してるんだ、私に下劣な悪口を吐いてるんだ……。」
「殿下、」とクリストフは言った、「私はその新聞を読んだことがございません。」
「嘘《うそ》をつくな!」と大公爵は叫んだ。
「私は嘘をついてると言われたくありません。」とクリストフは言った。「読んだことはございません。私は音楽に関係してるだけであります。それにまた、どういうところへ書こうと、それは私の権利であります。」
「お前にはただ黙る権利しかないんだ。私《わし》はお前たちに親切すぎた。お前の不品行やお前の父の不品行によって、もう疾《とっ》くに追い払う理由があったにもかかわらず、お前たち一家の者に恩恵を施してやった。私はお前に、私と敵対する新聞につづけて書くことを禁ずる。それからまた、どんなことであろうとも、今後私の許可なくして書くことを一般に禁ずる。お前の音楽上の筆戦にはもうたくさんだ。私の保護を受けてる者が、趣味と心を有する人々にとって、ほんとうのドイツ人にとって、貴重であるあらゆるものを攻撃して、時間をつぶすのを私は許さない。お前はりっぱな音楽を書く方がよい。もしそれができなければ、音階や練習に精を出す方がよい。国家的光栄を誹謗《ひぼう》したり人々の精神を混乱さしたりして喜ぶ、音楽上のベーベルを私は欲しない。われわれはありがたくも、何がよいかを知っている。それを知るには、お前から説き聞かされるのを待つ要はない。だからお前はピアノに向かうがよい。そしてわれわれを平和にしておいてもらいたいのだ。」
でっぷり肥《ふと》った彼は、クリストフと顔を向き合わして、侮辱的な眼で相手の顔をうかがっていた。クリストフは色を失って、口をききたがっていた。その唇《くちびる》はかすかに動いていた。彼は口ごもりつつ言った。
「私は殿下の奴隷ではありません。言いたいことを言います、書きたいことを書きます……。」
彼は息をつまらしていた。恥辱と憤怒《ふんぬ》とに泣かんばかりになっていた。両足は震えていた。片|肱《ひじ》を急に動かしながら、傍《かたわ》らの家具に乗ってた器物をひっくり返した。自分の様子がいかにもおかしいのをはっきり感じた。果たして笑い声が聞こえた。客間の奥をながめると、皮肉な憐憫《れんびん》の言葉をそばの人たちとかわしながら喧嘩《けんか》を見守《みまも》ってる姫の姿が、霧の向こうにあるようにぼんやり眼にはいった。それ以来彼は、何が起こってるかという正確な意識を失った。大公爵は叫んでいた。クリストフは何を言ってるのかみずから知らないで、いっそう高く叫んでいた。秘書官とも一人の役人とが彼の方へやって来て、彼を黙らせようとつとめた。彼は二人を押しのけた。背中でよりかかっていた家具の上から、機械的に一つの灰皿《はいざら》をつかみ取って、口をききながら振り回した。秘書官の言ってる言葉が耳にはいった。
「さあ、それを放したまえ、それを放したまえ……。」
そして自分が叫んでる取り留めもない言葉や、灰皿でテーブルの縁をたたいてる音などが、耳にはいった。
「出て行け!」と大公爵はひどく猛《たけ》りたって喚《わめ》いた。「出て行け、出て行け。追い出してやるぞ!」
将校らは大公爵のそばに来て、彼を鎮《しず》めようと試みていた。卒中症の大公爵は、両眼をむき出しながら、この無頼漢をつき出せと叫んでいた。クリストフは眼の前が真赤《まっか》になった。将《まさ》に大公爵の鼻面《はなづら》に拳固《げんこ》を食《くら》わせようとした。しかし種々の矛盾した感情の混乱に圧倒されていた。恥辱、激怒、または、彼のうちにまだ多少残ってる、怯懦《きょうだ》や、ゲルマン的忠義心や、伝統的な尊敬心や、君侯の前における屈従的習慣などであった。彼は口をききたかったがそれもできなかった。なんとかしてやりたかったがそれもできなかった。もはや何も眼にはいらず、何も耳にはいらなかった。押し出されるままになって、外へ出た。
彼は冷然たる召使らのまん中を通りぬけた。彼らは扉《とびら》のところまでやって来て、喧嘩《けんか》の騒ぎを残らず聞き取っていた。控室から外に出るため三十歩行くのが、彼には一生かかるかと思われた。前へ進むに従って廊下は長くなった。とうてい出られないような気がした……。向こうにガラス戸から見えてる戸外の光は、彼にとって天の救いであった……。彼はつまずきながら階段を降りていった。帽子を被《かぶ》っていないことに気づかなかった。受付の老人は彼を呼びとめて、帽子を注意してやった。彼はある限りの力を振るい起こしてようやく、官邸を出で、中庭を横ぎり、家へ帰りついた。歯をかち合わしていた。家の扉《とびら》を開くと、母は彼の顔つきと身震いとに恐れ驚いた。彼は母を避け、少しも問いに答えなかった。自分の室に上がって行き、扉を閉《し》め切り、そして寝た。非常に身体が震えていて、着物を脱ぐこともできなかった。息切れがして、手足にまるで力がなかった。……ああ、もう何も見ず、何も感ぜず、この惨《みじ》めな身体を維持する要もなく、卑しい人生と闘《たたか》う要もなく、斃《たお》れてしまい、呼吸も思想もなくて斃れてしまい、もはやどこにも存在しなかったら!……彼はようやくの思いで着物を脱ぎ去り、そのまま床の上に投げ散らし、寝床に飛び込み、眼までもぐり込んだ。室の中には物音が絶えた。床石の上に震える小さな鉄の寝台の音しか、もはや聞こえなかった。
ルイザは扉のところで立ち聞いていた。扉をたたいたが無駄《むだ》だった。静かに呼んでみた。なんの答えもなかった。ひっそりした様子を気づかって窺《うかが》いながら、彼女は待った。それから立ち去った。その日のうちにまた一、二度もどってきて、耳を澄ました。晩にもまた、寝る前にそうした。昼は過ぎ、夜も過ぎた。家じゅう静まり返っていた。クリストフは熱に震えていた。時々涙を流した。夜中に身を起こして、壁に拳固《げんこ》をさしつけた。午前の二時ごろ、にわかに狂暴な気持に駆られて、汗にまみれ半ば裸のまま寝床から出た。大公爵を殺しに行きたかった。憎悪《ぞうお》と恥辱とにさいなまれていた。身心とも燃えたってもがいていた。――この暴風雨《あらし》も、外へは少しも聞こえなかった。一つの言葉も一つの音もし漏れなかった。彼は歯を食いしばって、すべてを自分のうちに閉じこめていた。
翌朝、彼はいつものとおりに降りて来た。ひどくやつれていた。彼は何にも言わなかった。母も尋ねかねた。彼女は近所の噂《うわさ》ですでに知っていた。終日彼は暖炉の隅の椅子《いす》にすわり、老人のように背をかがめ、いらだち黙然としていた。そして一人になると、黙って涙を流した。
夕方、社会主義新聞の編集者が会いに来た。もとより彼は事件を知っていて詳細を聞きたがっていた。クリストフは彼の訪問に感動して、自分を危地に陥れた人々からの同情と謝罪とをもたらしたものだと率直に解した。自尊心から何にも後悔していないふうをした。そして心にあること
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