には、それでもう十分だった。彼はユーディットを愛しないで、こうであり得るかもしれないという彼女を――こうであるに違いないという彼女を、愛していた。彼女の美しい眼は、悩ましい幻惑を彼に及ぼしていた。彼はその眼を忘れることができなかった。その奥底に眠ってる沈鬱《ちんうつ》な魂を今や知りながらも、彼はなお見たいと思うとおりに、最初見たとおりに、その眼を見つづけていた。それは、恋なき恋の幻覚の一つであった。そういう幻覚は、作品にまったく没頭してはいないおりの芸術家らの心の中で、大なる地位を占むるものである。通りすがりの一つの顔も、彼らにこの幻覚を与えるに足りる。彼らはその女のうちに、彼女のうちにあって彼女みずから知りもせず気にもかけていないあらゆる美を、見て取るのである。そして彼女がその美を念頭においていないことを知っては、彼らはなおいっそうそれを愛する。だれにも価値を知られずに、そのまま死んでゆこうとしてる美しいもののように、彼らはそれに愛着する。
 おそらくクリストフは誤っていたろう。ユーディット・マンハイムは、実際の彼女より以上のものではあり得なかったろう。しかしクリストフは、しばらく彼
前へ 次へ
全527ページ中124ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング