国家が強大であるおりには、レッシングとともに、「愛国心は一つの勇ましい弱点で[#「愛国心は一つの勇ましい弱点で」に傍点]、なくてもよろしいものだ[#「なくてもよろしいものだ」に傍点]、」と彼らは言い、おのれを「世界の公民[#「世界の公民」に傍点]」だと呼んでいた。しかるに勝利を得た現在では、「フランス式の[#「フランス式の」に傍点]」空想たる、世界の平和、友愛、平和的進歩、人間の権利、生来の平等などにたいして、あくまで軽蔑《けいべつ》の念をいだいていた。最強の国民は他の国民にたいして絶対の権利を有するものであり、他の国民はより弱きがゆえにこの国民にたいしてなんらの権利も有しないものであると、彼らは言っていた。最強の国民は生きたる神であり、理想の化身であって、その進歩は戦争と暴力と圧制とによってなさるるのであった。今や力がおのれの方にあると、力は神聖なるものとなされていた。力はあらゆる理想となり知力となっていた。
 実を言えば、ドイツは数世紀の間、理想を有して力を有しないことを、非常に苦しんできたので、多くの艱難《かんなん》を経た後になって、何よりもまず力が必要であると、痛ましい告白をなすにいたったのは、恕《じょ》すべきことではある。しかしながら、ヘルデルやゲーテを有する国民のこの告白のうちには、いかに憂苦が潜んでいたことであろう! そしてこのドイツの戦勝は、ドイツ理想の放棄であり堕落であった……。ああ、ドイツのすぐれた人々の嘆かわしい服従的傾向よりすれば、かかる放棄は実に易々たることにすぎなかったのである。
 モーゼルはすでに一世紀余り以前に言っていた。
「ドイツ人の特徴は服従である[#「ドイツ人の特徴は服従である」に傍点]。」
 またスタール夫人も言っていた。
「彼らは勇敢に服従します[#「彼らは勇敢に服従します」に傍点]。世に最も哲学的で良い事柄[#「世に最も哲学的で良い事柄」に傍点]、すなわち力にたいする尊敬や[#「すなわち力にたいする尊敬や」に傍点]、この尊敬を変じて賛美とならしむる驚怖の感動など[#「この尊敬を変じて賛美とならしむる驚怖の感動など」に傍点]、それを説明するために[#「それを説明するために」に傍点]、彼らは哲学的推論を用います[#「彼らは哲学的推論を用います」に傍点]。」
 クリストフは、ドイツの最も偉大な人物から最も微小な人物にいたるまで、すべての者のうちに右の感情を見出した。上にはシルレルのウィルヘルム・テルがいた。人夫のような筋骨をもってる厳格なこの小市民は、自由なユダヤ人ベールネが言ったように、「ゲスレル閣下の帽子柱の前を[#「ゲスレル閣下の帽子柱の前を」に傍点]、その帽子を見なかったし敬礼の命令にそむいたのでもないということを証明するため[#「その帽子を見なかったし敬礼の命令にそむいたのでもないということを証明するため」に傍点]、眼を伏せて通りながら[#「眼を伏せて通りながら」に傍点]、名誉と恐怖とを妥協せしめんとした[#「名誉と恐怖とを妥協せしめんとした」に傍点]。」降《くだ》っては七十歳の敬すべき老教授ヴァイセがいた。彼は町で最も名誉な学者の一人だったが、一人の中尉殿[#「中尉殿」に傍点]が来るのを見ると、急いで歩道の高みを向こうに譲って、車道へ降りて行くのであった。クリストフは、常住卑屈のかかるつまらない行為を見ると、血が湧《わ》きたつのを覚えた。卑下したのはあたかも自分自身であるかのように、苦しい思いをした。往来ですれちがう将校らの傲慢《ごうまん》な様子は、彼らの横柄《おうへい》な鯱子張《しゃちこば》り方は、彼にひそかな憤怒《ふんぬ》の念を与えた。彼は彼らに少しも道を譲る様子を見せなかった。通り過ぎる時には彼らと同じように傲慢な眼つきで見返した。も少しで喧嘩《けんか》をひき起こしかけたことも一度ならずあった。あたかも彼は喧嘩を求めてるかのようだった。けれども彼は、そういう空威張《からいば》りの危険な無益さを認むることにおいては、あえて人後に落つるものではなかった。ただ時々彼はめちゃな気持になるのであった。たえず自制していたので、また頑強《がんきょう》な力が鬱積《うっせき》して少しも費やされなかったので、そのためにいらだってきた。するともうどんな馬鹿げた事でもやりかねなかった。もう一年もこの地にいたら自分は破滅するだろう、というような気がしていた。自分の上にのしかかってくる野蛮な軍国主義、舗石の上に鳴ってる佩剣《はいけん》、多くの叉銃《さじゅう》、砲口を町の方へ向けて発射するばかりになってる、兵営の前の大砲、それらのものに彼は憎悪の念をいだいていた。当時評判の高かった卑猥《ひわい》な小説は多く、大小を問わずあらゆる兵営内の腐敗を暴露《ばくろ》していた。将校らは皆悪徳の人物として描かれてい
前へ 次へ
全132ページ中114ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング