めて困難になり、相互の軽蔑《けいべつ》がきわめて容易となる。真実は各民衆を通じて同一である。しかし各民衆はおのれの虚偽をもっていて、それをおのれの理想と名づけている。その各人が生より死に至るまで、それを呼吸する。それが彼にとっては生活の一条件となる。ただ数人の天才のみが、おのれの思想の自由な天地において、男々《おお》しい孤立の危機を幾度も経過した後に、それから解脱することを得る。
つまらないふとした機会が、ドイツ芸術の虚偽をクリストフに突然開き示した。この虚偽に彼がその時まで気づかなかったのは、それを眼前に目撃することがなかったからではない。否彼はあまりにそれに接しすぎていて、適当の距離を有しなかった。しかるに今や山から遠ざかったので、その山が見えてきた。
彼は市立音楽堂の音楽会に臨んでいた。茶卓が十一、二列――二、三百ばかり並んでる広間だった。奥に舞台があって、そこに管絃楽団が控えていた。クリストフのまわりには、薄黒い長い上着をきちっとまとった将校連中! 髯《ひげ》を剃《そ》った、赤い、真面目《まじめ》な、俗気たっぷりの、大きな顔の連中、それから、例の誇張癖を発揮して、盛んに談笑してる貴婦人たち、それから、歯並みをすっかりむき出した微笑《ほほえ》み方をする、善良な令嬢たち、それから、髯《ひげ》と眼鏡との中に潜み込んで、眼の丸い人のよい蜘蛛《くも》に似ている、大男たち。彼らは健康を祝して杯を挙げるたびごとに、椅子《いす》から立ち上がっていた。そういう行ないを、宗教的な敬意をこめてやっていた。その瞬間には、彼らの顔つきも音調も変わった。ミサでも唱えてるような調子で、奠酒《てんしゅ》をささげ合い、聖杯を飲み干し、荘厳と滑稽《こっけい》との交った様子だった。音楽は談話と皿《さら》音の間に打ち消されていた。それでも皆、つとめて低声に話しひそやかに食べてるのだった。音楽長は背の曲がった大きな老人で、白髯《はくぜん》を尻尾《しっぽ》のように頤《あご》にたれ、反《そ》り返った長い鼻をし、眼鏡をかけて、言語学者のような風采《ふうさい》だった。――すべてそれらの類型的人物を、クリストフは久しい以前から見慣れていた。しかしその日はややもすれば、それらを漫画視しがちであった。そういうふうに、人物の奇怪な点が、平素は気づきもしないのに、別になんという理由もなく、突然眼についてくるような日が、往々あるものである。
管絃楽の曲目には、エグモント[#「エグモント」に傍点]の序曲、ワルトトイフェルの円舞曲《ワルツ》、タンホイゼルのローマ巡礼[#「タンホイゼルのローマ巡礼」に傍点]、ニコライの陽気な女房[#「陽気な女房」に傍点]の序曲、アタリー[#「アタリー」に傍点]の宗教行進曲、および、北極星[#「北極星」に傍点]といふ幻想曲《ファンタジア》、などが含まれていた。管絃楽は、ベートーヴェンの序曲を几帳面《きちょうめん》に演奏し、それから円舞曲《ワルツ》を猛然と演奏した。タンホイゼルの巡礼[#「タンホイゼルの巡礼」に傍点]が奏されてる間に、酒瓶《さけびん》の栓《せん》を抜く音が聞えた。クリストフの隣りのテーブルにすわっていた大男が、陽気な女房[#「陽気な女房」に傍点]の節《ふし》を取りながらフォルスタフの身振りをした。空色の長衣を着、白い帯をしめ、御子《しし》鼻に金の鼻眼鏡をかけ、腕の赤い、胴の大きな、肥満した年増の婦人が、シューマンとブラームスとの二、三の歌曲《リード》を、しっかりした声で歌った。彼女は眉《まゆ》をつり上げ、横目を使い、瞬《またた》きをし、左右に頭をうち振り、月のようなその顔に、凍りついた大きな微笑を浮かべ、そして、彼女のうちに輝き出してる厳格な正直さがなかったら、奏楽コーヒー店を時々|偲《しの》ばせるような、大袈裟《おおげさ》な身振りを盛んにやった。一家の母親たる彼女は、熱烈な娘や青春や情熱などを演じたのである。かくてシューマンの詩は、なんとなく育児院めいた無趣味な匂《にお》いを帯びてきた。聴衆は歓喜していた。――しかし、「南ドイツ男声合唱団」が現われた時、聴衆の注意は厳粛になった。彼らは感傷に満ちた種々の合唱曲を、順次にささやいたり喚《わめ》いたりした。四十人の人員で、四人で歌ってるような調子だった。あたかもその合唱から、本来の合唱的特色をことごとく除き去ろうと努めてるかと思われた。大太鼓をたたくような急激な大声を交えながらも、細かな旋律的効果を、内気な涙っぽい細やかな気分を、息も絶え絶えの最弱音の調子を、ねらったものであった。豊満と平衡との欠除であり、甘ったるい様式であった。ボットムの言葉を思わせた。
――私に獅子《しし》の役をやらしてください。雛《ひな》に餌《え》をやる女鳩《めばと》のように、私はやさしく吼《ほ》えてみせます。
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