あたかもその存在を認めていないかのようだった。
フランツは彼が話してるのをながめていた。感嘆と誇張癖とを交えて唇《くちびる》や眼を動かしながら、その一語一語を跡づけていた。そして父や殊に嘲《あざけ》り気味の目配せをしながら、ふき出し笑いをしていた。が妹は平然として、兄の目配せに気づかないふうを装《よそお》っていた。
ロタール・マンハイム――少し背の曲がった頑丈《がんじょう》な大きな老人、赤い顔色、角刈りにした灰色の髪、ごく黒い口|髭《ひげ》と眉《まゆ》毛、重々しいがしかし元気で嘲弄《ちょうろう》的で、強烈な生活力を思わせる顔つき――彼もまた、狡猾《こうかつ》なお人よしのふうをして、クリストフを研究していた。そして彼もまた、この青年の中に「何か」があることを、ただちに見て取った。しかし彼は、音楽にも音楽家にも興味をもたなかった。それは彼の部門ではなかった。何にもわからなかったし、わからないことを隠しもしなかった。むしろそれを自慢にさえしていた。――(こういう種類の人が無知を表白するのは、それを誇らんがためにである。)――そしてクリストフの方でも、その銀行家なんかが仲間に加わらなくても別に遺憾と思わないことや、ユーディット・マンハイム嬢との会話だけでその招待の一夜には十分であるということを、他に悪意のない無作法な様子で明らさまに見せつけていたので、ロタール老人は面白がって、暖炉の片隅にすわり込んでいた。そして新聞を読みながら、皮肉な耳をぼんやり傾けて、クリストフの訳のわからない言葉とその奇怪な音楽とを聞いていた。そんな音楽を理解して喜びを感ずるような人があるかと思っては、おりおりひそかな笑いをもらしていた。もはや会議の筋道についてゆくだけの労をも取らなかった。新来の客の真価を知ることは、娘の知力に一任していた。彼女は真面目《まじめ》にその役目を果たしていた。
クリストフが帰ってゆくと、ロタールはユーディットに尋ねた。
「やあ、かなり本音を吐かせたようだね。どう思う、あの音楽家を?」
彼女は笑い、ちょっと考え込み、一言にまとめて、言った。
「少し足りないところがあるようですが、でも馬鹿じゃありませんわ。」
「なるほど、」とロタールは言った、「わしもそう思った。で、成功するだろうかね?」
「するでしょうよ、しっかりしてますわ。」
「それは結構だ。」とロタールは、強者にのみ加担する強者のりっぱな理論をもって言った。「では助けてやらなくちゃいけまい。」
クリストフの方では、ユーディット・マンハイムにたいする賛美の念をもち帰った。けれども彼は、ユーディットがみずから思ってるほど心を奪われてはいなかった。二人とも――彼女はその慧敏《けいびん》さによって、彼は知能の代わりとなってる本能によって――等しく相手を見誤っていた。クリストフは、彼女の顔貌《がんぼう》の謎《なぞ》と頭脳生活の強烈さとに蠱惑《こわく》されていた。しかし彼女を愛してはいなかった。彼の眼と理知とはとらえられていたが、彼の心はとらえられていなかった。――なぜか?――それを説明するのはかなり困難に思える。彼女のうちに曖昧《あいまい》な気懸《きがか》りな何かを、認めたからであったろうか? しかしそれは他の場合であったら、彼にとっては、ますます愛するようになるべき一つの理由であるはずだった。恋愛は、苦しい破目に陥ってゆくことを感ずる時、ますます強烈になってゆくものである。――クリストフがユーディットを愛しなかったとしても、それは二人のどちらの罪でもなかった。愛しない真の理由は、二人のいずれにとってもかなり面白からぬことではあるが、彼が最近の恋愛からまだ十分遠ざかっていなかったということである。経験が彼を聡明《そうめい》にならしたのではなかった。しかし彼はアーダを非常に愛し、その情熱のうちに多くの信念や力や幻を浪費したので、今は新しい情熱にたいしてそれらが十分残っていなかった。他の炎が燃えたつ前に、彼は心の中に他の薪を用意しなければいけなかった。まずそれまでは、偶然に燃え出す一時の火、火災の余炎があるばかりで、それはただ輝いた暫時《ざんじ》の光を発しては、そのまま燃料がなくて消えてゆくのだった。六か月も後だったらおそらく、彼は盲目的にユーディットを愛したろう。が今では、彼は彼女のうちに友だち以上の何物をも認めなかった――確かにやや不安な友だちではあったが。――しかし彼はその不安を払いのけようとつとめた。その不安は彼にアーダのことを思い起こさした。それは魅力のない思い出だった。ユーディットに彼がひきつけられたのは、彼女が他の女と異なったものをもってるからであって、他の女と共通なものをもってるからではなかった。彼女は彼が出会った最初の理知的な女であった。彼女は頭から足先まで理知的
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