のだった。
クリストフが、晩にマンハイム家へ行って御馳走《ごちそう》になるのだと告げた時、彼女は彼になんとも言いかねた。しかし多少心を痛めた。彼女の考えでは、ユダヤ人にたいする人々の悪口をすっかり信じてはいけないし――(世間の人はだれの悪口でも言うのである)――どこにでもりっぱな人たちがいるものではあるが、しかしそれでも、ユダヤ人はユダヤ人の方で、キリスト教徒はキリスト教徒の方で、それぞれ敷居をまたぎ越さない方が、いっそうよくいっそう好都合なのだった。
クリストフは少しもそういう偏見をもってはいなかった。周囲にたえず反発したい気性から、彼はむしろその異民族に心ひかれていた。しかし彼はほとんどその民族を知らなかった。彼が多少の交渉をもっていたのは、ユダヤ民族の最も卑俗な成分とばかりだった。すなわち、小さな商人、ライン河と大会堂との間の小路にうようよしてる下層民らで、彼らは皆、あらゆる人間のうちにある羊の群れみたいな本能をもって、一種の小ユダヤ町を建設しつづけていた。クリストフはしばしば、その一郭を歩き回っては、物珍しいまたかなり同情のある眼で、さまざまの型《タイプ》の女を通りがかりにうかがった。彼女らは頬《ほお》がくぼみ、唇《くちびる》と頬骨とがつき出て、ダ・ヴィンチ式のしかも多少卑しい微笑を浮かべ、その粗雑な話し方と激しい笑いとは、穏やかなおりの顔の調和を不幸にも常に破っていた。しかし、その下層民の滓《かす》の中にも、大きな頭をし、ガラスのような眼をし、多くは動物的な顔をし、肥満してずんぐりしてるそれらの者どもの中にも、最も高尚な民族から堕落してきたそれらの末裔《まつえい》の中にも、その臭い汚泥《おでい》の中にさえ、沼沢の上に踊る鬼火のように輝く不思議な燐光《りんこう》が、霊妙な眼つき、燦然《さんぜん》たる知力、水底の泥土《でいど》から発散する微細な電気が、見て取られるのであった。そしてそれはクリストフを幻惑し不安ならしめた。身をもがいてるりっぱな魂が、汚辱から脱しようと努めてる偉大な心が、そこにあるのだと彼は考えた。そして彼は、それらに出会って、それらを助けてやりたかった。よく知りもしないで、また多少恐れながらも、彼はそれらを愛していた。しかしかつて、そのいずれとも親交を結んだことがなかった。ことにユダヤ人仲間の選まれたる人々と接するの機会は、かつて到来したことがなかった。
それで彼にとっては、マンハイム家の晩餐《ばんさん》は、新奇な魅力と禁ぜられた果実の魅力とをそなえていた。その果実を与えてくれるイーヴのせいで、それがいっそう美味になっていた。クリストフはそこにはいって行った瞬間から、ユーディット・マンハイムにばかり見とれていた。彼女は、彼がその時までに知っていたあらゆる女とは、違った種類のものだった。丈夫な骨格にかかわらず多少|痩《や》せ形の高いすらりとした姿、多くはないがしかし房々《ふさふさ》として低く束ねられてる黒髪、それに縁取られてる顔、それに覆《おお》われてる顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》と骨だった金色の額《ひたい》、多少の近視、厚い眼瞼《まぶた》、軽く丸みをもった眼、小鼻の開いたかなり太い鼻、怜悧《れいり》そうにほっそりした頬、重々しい頤《あご》、かなり濃い色艶《いろつや》、そういうものをもってして彼女は、元気なきっぱりした美しい横顔をしていた。正面《まとも》に見れば、その表情は少し曖昧《あいまい》で不定で複雑だった。眼と顔とが不|釣《つ》り合《あ》いだった。彼女のうちには、強健な民族の面影が感ぜられた。そしてこの民族の鋳型《いがた》の中には、あるいはきわめて美しいあるいはきわめて卑俗な無数の不均衡な要素が、雑然と投げ込まれてるのが感ぜられた。彼女の美はとくに、その口と眼とに存していた。口は黙々としており、眼は近視のためにいっそう奥深く見え、青みがかった眼縁のためにいっそう影深く見えていた。
前にいる女の真の魂を、その両眼の潤《うる》んだ熱烈なヴェール越しに読み取り得るには、クリストフはまだ、個人によりもむしろ多く民族に属してるその眼に十分慣れていなかった。その燃えたったしかも陰鬱《いんうつ》な眼の中に彼が見出したものは、イスラエルの民の魂であった。その眼はみずから知らずして、おのれのうちにイスラエルの民の魂をもっていたのである。彼はその中に迷い込んでしまった。彼がこの東方の海上に道を見出し得るようになったのは、ずっと後のことであって、かかる眸《ひとみ》のうちに幾度も道を迷った後にであった。
彼女は彼をながめていた。何物もその視線の清澄さを乱し得るものはなかった。何物もそのキリスト教徒の魂から逃《のが》れ得るものはなさそうだった。彼はそれを感じた。彼はその女らしい眼つきの魅惑の
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