、管絃楽団には漏れなく聞こえる、その激しい叱責《しっせき》に、彼女はじれながらも、なお頑固《がんこ》につづけて、あまりに速度をゆるくし、休止符や延音符《フェルマータ》をやたらに用いた。彼はそれを構わずに先へ進んだ。しまいに二人の間は一拍子だけ隔たった。聴衆はそれに気づいていなかった。クリストフの音楽は快いものでもまたは正確なものでもないということは、すでに長い前から一般に認められていた。しかし同意見でなかったクリストフは、物に憑《つ》かれたようなしかめ顔をしていた。そしてついに破裂した。彼は楽句の中途でぴたりと弾《ひ》きやめた。
「もうたくさんだ!」と彼は胸いっぱいに叫んだ。
 彼女は勢いに躯られて、なお半小節ばかりつづけ、そして歌いやめた。
「たくさんだ!」と彼は冷やかにくり返した。
 聴衆は一時|惘然《ぼうぜん》とした。やがて彼は冷酷な調子で言った。
「やり直すんだ!」
 彼女は呆気《あっけ》に取られて彼をながめた。その両手は震えていた。彼の顔に楽譜を投げつけてやりたいと思った。あとになっても彼女は、どうしてそれをしなかったのか自分でもわからなかった。しかしクリストフの威厳に彼女は圧服されていた。――彼女はやり直した。一連の歌曲《リード》をことごとく、一つの表情をも一つの速度をも変えないで歌った。なぜなら、彼が何物をも仮借《かしゃく》しないだろうと感じていたから。そして、またしても侮辱を受けやすまいかと考えては戦《おのの》いていた。
 彼女が歌い終わると、聴衆は熱狂して呼び返した。彼らが喝采《かっさい》してるのは、歌曲《リード》をではなかった――(彼女がたとい他の曲を歌ったのであっても、彼らは同じように喝采しただろう)――名高い老練な歌手をであった。彼女は賞賛しても安全であると彼らは知っていた。そのうえ侮辱の結果を償ってやるつもりもあった。歌手が間違えたのだということを漠然《ばくぜん》と悟っていた。しかしクリストフがそれを皆の前にさらけ出したのは、恥知らずな仕業だと考えていた。彼らはそれらの楽曲を繰り返させようとした。しかしクリストフは断固としてピアノを閉じてしまった。
 彼女はその新たな無礼に気づかなかった。あまりに惑乱していて、ふたたび歌おうとは思っていなかった。急いで舞台から出て、自分の室に引きこもった。そこで十五分ばかりの間、心中に積もり重なった恨みと怒
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