のは美しい曲ばかりであり、愉悦が得られるに違いないと、前もって思い込んでしまってる連中だった。その彼らにどうして、みずから批判をくだすことなんかできたろう? 彼らはそれら神聖な大家の名前にたいして、満腔《まんこう》の尊敬をささげていた。彼らの尊敬しないものは何があったろう? その番組にたいしても、酒杯にたいしても、自分自身にたいしても、みな恭々《うやうや》しかった。近くとも遠くとも、すべて自分に関係のあるものにたいしては、「閣下」の尊称を頭の中で与えてるらしかった。
クリストフは代わる代わるに、聴衆と作品とのことを考えてみた。あたかも庭の飾りの球《たま》のように、作品は聴衆を反映し、聴衆は作品を反映していた。クリストフは笑い出したい気持になって、顔をしかめた。それでもなお我慢していた。けれども「南ドイツ人」の一団が現われて、恋に落ちた若い娘の気恥ずかしい告白[#「告白」に傍点]を、堂々と歌いだした時には、もう堪えられなかった。彼は放笑《ふきだ》した。憤りの叱声《しっせい》が起こった。隣席の人々は驚いて彼をながめた。それらの憤慨した善良な顔を見ると、彼は愉快になった。彼はますます笑い、笑いつづけ、涙を出して笑いこけた。それには人々も怒った。「出ろ!」と人々は叫んだ。彼は立ち上がり、こみ上げてくる哄笑《こうしょう》に背中を震わしながら、肩をそびやかして出て行った。その退席は人々の憤慨を招いた。それが、クリストフとその町との間の敵意の始まりであった。
右の経験のあとで、クリストフは家に帰ると、「神聖なる」音楽家らの作品を読み返してみた。そして自分が最も愛していた楽匠中にも、嘘《うそ》をついてる者のあるのを認めて駭然《がいぜん》とした。初めはそれを疑おうとつとめ、自分の誤解だと思おうとつとめた。――だが、どうしても駄目《だめ》だった。……大国民の芸術的至宝をこしらえている凡庸《ぼんよう》と虚偽との量に、彼は驚かされた。審査に堪え得るページは、いかに僅少《きんしょう》なことだったろう!
それ以来彼は、敬愛していた他の作品を読むにも、もはや懸念に胸を震わさざるを得なかった。……鳴呼《ああ》、彼は何かに誑《たぶ》らかされたようだった。何物にも同じような不満ばかりだった。ある楽匠にたいしては、断腸の思いをした。愛する友を失ったようなものだった。信頼しきっている友から数年来欺
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