かれていたことに気づいたようなものだった。それを彼は泣いた。もう夜も眠れなかった。たえず苦しんだ。みずから自分をとがめた。もう自分には判断ができなくなったのか? 自分はまったく馬鹿になってしまったのか? 否々、晴れやかな日の麗わしさは、いつもよりずっとよく眼にはいった。人生のみごとな豊富さは、いつもよりずっとよく感ぜられた。彼の心は少しも彼を欺いてはいなかった。
なお長らく彼は、自分にとって最もりっぱな人々、最も純粋な人々、聖者中の聖者とも言うべき人々、そういう楽匠にはあえて手を触れなかった。彼らにたいしていだいてる信仰が傷つけられはすまいかと恐れた。しかしながら、最後まで突進して、たとい苦しみを受けようとも、事物の真相を見きわめんと欲する、誠実な魂の仮借《かしゃく》なき本能には、どうして抵抗することができよう?――で彼はついに神聖なる作品をひらいた。最後の予備隊、近衛《このえ》兵……をもくり出した。そして一目見ると、それらもやはり他の作品と同じく無瑾《むきず》ではなかった。彼は読みつづけるだけの勇気がなかった。時々、読みやめては本を閉じた。彼はノアの息子《むすこ》のように、父親の裸体にマントを投げかけたのであった……。
やがて彼は、それらの廃墟《はいきょ》の中に困惑してたたずんだ。神聖な幻影を失うくらいなら、むしろ自分の片腕を失っても惜しくなかった。心の中の死の悲しみだった。しかし彼のうちには強い活気が宿っていたので、芸術にたいする信頼の念は、そのために動揺されはしなかった。青年のひたむきな自負心をもって、あたかも自分より前にはだれも生きた者がないかのように、ふたたび生活を開始した。生きた熱情と、それに対する芸術の表現との間には、ほとんど例外なしになんらの関係もないということを、彼は自分の新しい力に酔いながら感じていた――おそらく理由がないでもなかったろうが。しかし彼がみずから熱情を表現した時、よりうまくより真実にやれたことと思ったのは、誤りであった。彼はまだそれらの熱情に満たされていたので、自分の書いたもののうちにそれらを見出すのは容易であった。けれども彼以外の他人には、彼が使ったような不完全な彙語《いご》のもとにそれらを認知し得る者は、一人もなかったであろう。彼が非難した多くの芸術家についても、同様であった。彼らは皆、深い感情をいだきそれを表現した。しかし
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