鶯《うぐいす》かと思われるように、私は吼えてみせます。
クリストフは初めから耳を傾けながら、次第に呆気《あっけ》にとられてきた。そういうものは彼にとっては少しも珍しいものではなかった。それらの音楽会、管弦楽団、聴衆、それを彼はよく知っていた。ところが今にわかに、そのすべてが嘘《うそ》であるように思われた、すべてが、最も好んでいたものまでが、エグモント[#「エグモント」に傍点]の序曲までが。その荘麗な混乱と正確な紛擾《ふんじょう》とは、今は誠実を欠いてるかのように彼の気色を害した。もちろん彼が聞いたのは、ベートーヴェンやシューマンではなく、その滑稽《こっけい》な演奏者らであり、その鵜呑《うの》みにしたがってる聴衆であって、彼らの濃厚な馬鹿《ばか》さ加減は、重々しい雲のように作品のまわりに立ちこめていた。――がそれはそれとして、作品の中にも、最もりっぱな作品の中にさえも、クリストフがまだかつて感じたことのないある不安なものがこもっていた。――いったいそれはなんであるか? 彼は愛する大家を論議することの不敬を考えて、それをあえて分析して考察することができなかった。しかしいくら見まいとしても、それが眼についた。そして心ならずも見つづけていた。ピザのヴェルゴニョザ[#「ヴェルゴニョザ」に傍点]のように、指の間からのぞいていた。
彼は赤裸々なドイツ芸術を見た。すべての者が――偉大な者も愚かな者も――一種感傷的な慇懃《いんぎん》さで自分の魂を披瀝《ひれき》していた。感動があふれ、高尚な道徳心が滴《したた》り、心をこめて夢中に感情が吐露されていた。恐るべきゲルマン多感性の水門が、切って放たれていた。その多感性は強者の元気を希薄にし、弱者を灰色の水の下におぼらしていた。一つの汎濫《はんらん》であった。ドイツの思想がその底に眠っていた。しかも、メンデルスゾーン式の、ブラームス式の、シューマン式の思想は、また引きつづいては、誇張的な空涙的な歌曲のちっぽけな作者たち一団の思想は、往々にしてなんたるものであったか! 皆砂でできていた。一つの岩もなかった。湿った怪しげな土器であった……。それらは皆、いかにもくだらない幼稚きわまるものだったので、全聴衆がそれにびっくりしていなかろうとは、クリストフには信じ得られないほどだった。ところがまわりをながめると、安泰そうな顔つきばかりだった。聞いてる
前へ
次へ
全264ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング