ものは、彼と彼の過去との間ににわかに溝渠《こうきょ》を穿《うが》ったものは、最近半年間の経験であった。彼は幻影から脱出していた。今や彼は、おのれのあらゆる思想の真偽の度を判断するためにあてがい得る、現実の尺度を所有していた。
 彼は熱情なしに作られた昔の曲譜に嫌悪《けんお》の情を覚えたので、その結果例の誇張癖から、熱烈な要求に迫られて書かせられるもののほかは、もういっさい書くまいと決心した。そして観念の探求をそこに中止して、もし創作熱が雷電のように落ちかかって来るのでなければ、永久に音楽を捨てようと誓った。
 彼がかくみずから誓ったのは、雷鳴が到来しつつあることをよく知っていたからである。
 雷は、みずから欲する所にまた欲する時に、落ちる。しかし笛を引きよせる高峰がある。ある場所――ある魂――は、雷鳴の巣である。それは雷鳴を創《つく》り出し、あるいは地平の四方から雷鳴を呼ぶ。そして一年のある月と同じく、生涯《しょうがい》のある年齢は、きわめて多くの電気を飽和しているので、迅雷《じんらい》がそこに生じてくる――随意にでなくとも――少なくとも期待する時に。
 全身が緊張する。幾日も幾日もの間、雷鳴が準備される。燃え立った入道雲が、白けた空にかかっている。一陣の風もない。澱《よど》んだ空気が発酵して、沸きたっているように見える。大地は茫然《ぼうぜん》として沈黙している。頭脳は、熱にとどろいている。全自然は、蓄積された力の爆発を待ち、重々しく振り上げられ、黒雲の鉄碪《かなしき》の上に一挙に打ちおろされんとする、鉄槌《てっつい》の打撃を待っている。陰惨な熱い大きな影が通り過ぎる。熱火の風が吹き起こる。全身の神経は、木の葉のようにうち震える。――それから、また沈黙が落ちてくる。空はなお雷電を醸《かも》しつづける。
 かかる期待のうちには、一つの歓《よろこ》ばしい苦悶《くもん》がある。不安に押えつけられながらも、人はおのれの血脈中に、宇宙を焼きつくす火が流れるのを感ずる。醸造|樽《だる》中の葡萄《ぶどう》の実のように、飽満せる魂は坩堝《るつぼ》の中で沸きたつ。生と死との無数の萌芽《ほうが》が、魂を悩ます。何が生じて来るであろうか? 魂は姙婦のように、自分のうちに眼を向けて口をつぐみ、胎内の戦《おのの》きに気づかわしげに耳傾ける。そして考える、「私から何が生まれるであろうか?」時に
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