になったのかもわからなかった。彼は顔を赤らめた。ある時などは、最も幼稚なページを一つ読んだあとで、室にだれもいないかふり返って見て、それから恥ずかしがってる子供のように、寝台のところへ行って枕《まくら》に顔を隠したこともあった。またある時は、自分の笑うべき作品がいかにも滑稽《こっけい》に思えて、我れながら自分の作であることを忘れた……。
「ああ馬鹿だなあ!」と彼は腹をかかえて笑いながら叫んだ。
しかし最も厭味《いやみ》なのは、恋愛の苦しみや喜びなど、熱烈な感情を表現したつもりでいる曲譜だった。彼は蚊にでもさされたかのように、椅子《いす》の上に飛び上がった。テーブルを拳《こぶし》でうちたたき、憤怒《ふんぬ》の喚《わめ》き声をたてながら、みずから頭をたたいた。荒々しくみずからののしり、豚だの恥知らずだの大馬鹿者だのと自分を呼んで、しばらくはある限りの悪口を自分に浴びせた。しまいには怒鳴り散らしたために真赤《まっか》になって、鏡の前につっ立った。そして頤《あご》をつかみながら言った。
「見ろ、見ろ、間抜《まぬけ》め、なんという馬鹿な顔をしてるんだ! 嘘もいい加減にしろ、無頼漢《ならずもの》め! 水だ、水だ!」
彼は顔を盥《たらい》につき込んで、息がつまるまで水につけておいた。そして顔を充血さし、眼をむき出し、海豹《あざらし》のように息を吐きながら、水から顔を出すと、身体にしたたる水を拭《ぬぐ》いもやらず、急いでテーブルのところに行き、のろわれたる作品を引っつかみ、それを猛然と引き裂きながら、つぶやいた。
「こら、やくざ者め!……こら、こら!……」
そしてようやく胸をなでおろした。
それらの作品がことに彼を激昂《げっこう》さしたゆえんは、その虚偽であることだった。ほんとうに感じたものは何もなかった。暗誦《あんしょう》した句法、小学生徒の修辞法ばかりだった。盲人が色彩のことを語るような調子で、彼は恋愛を語っていた。流行の幼稚な説をくり返しながら、聞きかじりで語っていた。そしてただに恋愛ばかりでなく、あらゆる熱情が、放言の題目に使われていた。――それでも彼は常に真実たらんと努めたのであった。しかし真実たらんと欲するだけでは足りない。真実であり得なければいけない。そして、まだ少しも人生を知らないうちに、いかで真実たることを得よう? それらの作品の虚構を彼に開き示してくれた
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