。また多くは、一つの声音、街路を通る一人の男、風の音、内心の律動《リズム》、など些細《ささい》なものからにわかに呼び起こされる、仄《ほの》かな明滅する感覚。――それらの計画の多くのものは、ただ題名だけでしか存在していなかった。一つもしくは二つ限りの主調にまとめられるものであったが、それで十分だった。ごく若い人々と同じく彼もまた、創造しようと夢想していたものを創造したのだと信じていた。
しかし彼はかかる煙のごときもので長く満足するには、あまりに多く生活力をそなえていた。彼は空想的な所有に飽きて、幻想を実際につかみ取ろうとした。――まずいずれより始むべきか? いずれの幻想も皆等しく重要なものに思われた。彼はそれらをくり返しまたくり返して調べた。投げ捨ててはまた取り上げた。……否もう、元のを取り上げるのではなかった。もう同じものではなかった。二度ととらえることはできなかった。たえず幻想は変化していた。ながめてるうちにも、手の上で眼の前で、変化した。急がなければならなかった。しかも彼は急いでやることができなかった。自分の仕事の緩慢さに困りぬいた。全部を一日に仕上げたいほどであるのに、わずかな仕事をしでかすのにも非常な困難を感じた。最もいけないことには、着手したばかりでもう厭《いや》になった。幻想は通り過ぎてゆき、彼自身も通り過ぎていった。一つのことをやってると、他のことをやれないのが残念だった。りっぱな主題を一つ選み取っただけで、もうその主題に興味がなくなるように思われた。かくてそのあらゆる財宝も、彼には役にたたなかった。彼の思想は皆、彼が手を触れさえしなければ生き生きとしていた。首尾よくとらえると、もうすでに死んでいた。それはタンタルスの苦痛に似ていた。届く所に果実がなっているけれど、それを手に取ると石になった。唇《くちびる》の近くに清水があるけれど、身をかがめると遠のいてしまった。
彼は渇《かつ》を癒《いや》さんがために、すでに手に入れた泉で、自分の旧作で、喉《のど》をうるおそうとした。……厭な飲料! 彼はそれを一口含むや、ののしりながらすぐに吐き出した。何事ぞ、この生|温《あたた》かい水が、この空粗な音楽が、自分の音楽であったのか?――彼は自分の作曲をひとわたり読み返してみた。そして駭然《がいぜん》とした。さらに腑《ふ》に落ちなかった。どうしてそんなものを書く気
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