を離していた。そして畑を横切って逃げだした。彼女は石を投げつけ、破廉恥な呼び方をやたらに浴せかけた。彼は真赤《まっか》になって、彼女の言葉や考えよりもむしろ自分自身の考えに多く恥じ入った。そういう行いをした突然の無意識が非常に恐ろしくなった。何をしたのか? 何をしようとしたのか? それについて了解し得るかぎりのことは皆、嫌悪《けんお》の情を起こさせるものばかりだった。そしてその嫌悪の情からまた挑発《ちょうはつ》された。彼は自分自身と争った。どちらに真のクリストフがあるかわからなかった。盲目的な力が襲いかかってきた。いくらそれをのがれようとしても駄目《だめ》だった。自分自身から逃げることだった。その力は彼をどうするか分らない。明日……一時間後……耕作地を駆けぬけて道路に達するまでのそれだけの時間に、彼は何をするかわからない。彼は道へまでも行きつけるだろうか。引返して娘のところへ駆けつけるために、立止りはしないだろうか。そしてもしその時は?……彼は娘の喉元《のどもと》をとらえていたあの眩迷《げんめい》の瞬間を思い出した。いかなる行いも可能であった。罪悪でさえも……そうだ、罪悪でさえも。……彼は胸騒ぎのために息がはずんでいた。道路まで行きつくと、息をするために立止った。娘は向うで、叫び声をきいてやって来たも一人の娘と話をしていた。そして二人は腰に拳《こぶし》をあてて、大笑いをしながら彼の方をながめていた。
 彼は家に帰った。数日間、身動きもしないで、室に閉じこもった。やむを得ない場合の外は、町へも出かけなかった。町の入口を通る機会を、野へ踏み出す機会を、びくびくして避けていた。暴風雨の前の静けさの最中に起る一陣の風のように、彼の上に吹きおろしてきたあの狂乱の息吹《いぶ》きを、そこでまた見出しはすまいかと恐れた。町の廓壁《かくへき》は自分をそれから守ってくれるだろうと、彼は思っていた。しかし、閉《し》め切った雨戸の間の眼に留らないほどの隙間《すきま》が、視線を通し得るくらいの隙間があれば、敵は忍び込んでくることができるということを、彼は考えていなかった。
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     二 ザビーネ


 中庭の向こう側、家の片翼の一階に、二十歳の若い女が住んでいた。ザビーネ・フレーリッヒという名前で、数か月前から寡婦になり、一人の小さな娘をもっていたが、やはりオイレル老人の借家人だった。街路に面した店をもっていて、なおその上に、中庭に面した二つの室を有し、四角な狭い庭までついていた。その庭は、蔦《つた》のからんだ針金作りのちょっとした垣根《かきね》で、オイレル一家の庭と区別されていた。彼女の姿は滅多に庭に見えなかったが、子供は朝から晩まで、土いじりをしてそこで一人遊んでいた。庭には草木が思うままはびこっていたので、手入れの届いた径《みち》と整然たる自然とを好んでいたユスツス老人は、それが非常に不満だった。そのことについて、借家人に少し注意を与えたこともあった。しかしおそらくそのために、彼女はもう庭に出て来なくなったのであろう。そして庭は少しもよくなりはしなかった。
 フレーリッヒ夫人は小さな小間物店を出していた。町の目抜きの繁華な街路に位していたので、かなり客足がつくはずだった。しかし彼女はこの商売にも、庭にたいすると同様にあまり気を入れていなかった。フォーゲル夫人の説に従えば、自尊心のある婦人にとっては――ことに、怠惰を許されないまでも怠惰でいてやってゆけるくらいの財産がない時には――自分で世帯の仕事をするのが至当であるそうだが、フレーリッヒ夫人はそうしないで、十五歳の小娘を一人雇っていた。この小娘が朝のうち幾時間かやって来て、若いお上さんが寝床の中にぐずついたり、呑気《のんき》にお化粧をしたりする間、室を片付けたり店番をしたりしていた。
 クリストフは時々、彼女が長い肌着《はだぎ》をつけ素足のままで室の中をうろうろしたり、長い間鏡の前にすわっていたりするのを、窓ガラス越しに見かけることがあった。彼女は窓掛をおろすのを忘れるほど無頓着《むとんじゃく》だった。そして気がついても、無精のあまりわざわざ窓掛をおろしに行こうともしなかった。クリストフは彼女よりずっと初心《うぶ》だったから、向うをきまり悪がらせまいと思って窓から離れた。しかし誘惑は強かった。少し顔を赤めながらも、彼女の両腕を横目で見やった。その腕は心持|痩《や》せていて、解いて髪のまわりに懶《ものう》げに上げられ、頸《くび》の後ろで手先を組み合していたが、しまいにしびれてきてまたがっくりおろされるまで、そのままぼんやりしていた。クリストフはその快い光景をただ通りがかりにうっかり見たばかりであって、そのために音楽上の瞑想《めいそう》が少しも邪魔されはしなかったのだと、思い込んでい
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