。それら生物の最小から最大にいたるまで、同じ一つの生命の川が貫流していた。川は彼をも浸していた。彼は彼らと同じ血からなり、彼らの悦楽の親しい反響を聞いた。多くの小川で大きくなった河のように、彼らの力は彼の力に交り合った。彼は彼らの中におぼれた。窓を破って窒息してる彼の心に吹き込んできた空気の圧力に、彼の胸は破裂せんばかりになった。変化はあまりに急激だった。至るところに虚無ばかりを見てきた後に、自分の生存をのみ懸念していて、その生存が雨のように分散するのを感じていたのに、今やおのれを忘れて宇宙のうちに甦《よみがえ》らんとあこがれると、至るところに無限無辺の生を見出したのであった。彼は墳墓から出て来たような思いがした。生の河はなみなみとたたえて流れていた。彼はその中を愉快に泳いでいった。そしてその流れに運ばれながら、彼はまったく自由の身だと信じた。彼は知らなかった、前より少しも自由ではないということを、何人《なんぴと》も自由ではないということを、宇宙を支配する法則自身でさえも自由ではないということを、死のみが――おそらく――人を解放してくれるということを。
しかし、殻から出た蛹《さなぎ》は、新らしい外皮の中に喜んで手足を伸して、自分の新しい牢獄《ろうごく》の境界をまだ認めるの隙《ひま》がなかった。
月日の新しい周期が始った。幼い時、初めて事物を一つ一つ発見していった時のような、神秘な喜ばしい、黄金と熱気との日々であった。黎明《れいめい》から黄昏《たそがれ》のころまで、彼はたえざる幻の中に生きていた。すべての務めはうち捨てられた。長い年月の間、たとい病気の時でさえ、一回の稽古《けいこ》をも一回の管弦楽試演をも欠かしたことのない、この生真面目《きまじめ》な少年は、今やよからぬ口実を捜し出しては、仕事をなまけた。彼は嘘《うそ》をつくことも恐れなかった。嘘をついても後悔の念を覚えなかった。これまで喜んで意志を服せしめていた堅忍主義の生活は、道徳も義務も、今はほんとうのものでないように彼には思えた。その偏狭な専制は自然にぶっつかってこわれてしまった。健全強壮自由な人間性、それが唯一の徳である。その他はすべて悪魔にでも行くがいい! 世間から道徳の名をもって飾られ、人生をその中に押し込めようと世人がしている、用心深い策略の煩瑣《はんさ》な規則を見ると、憫笑《びんしょう》に価するようなものばかりであった。笑うべき土竜《もぐら》の巣だ! 生命が一過すれば、すべては清掃されるのだ……。
クリストフは精力に満ちあふれながら、時々、破壊し、焼きつくし、粉砕し、息苦しい自分の力を盲目狂暴な行為で飽満させたいという、欲望に駆られた。たいていそういう発作は、突然の精神|弛緩《しかん》に終ることが多かった。彼は涙を流し、地上に身を投出し、大地に抱きついた。それにかじりつき、しがみつき、それを食いたかった。彼は熱気と欲求とに震えていた。
ある夕方、彼は林の縁を散歩していた。眼は光に酔わされ、頭はふらふらしていて、すべてが変容される狂熱状態にあった。ビロードのような夕の光が、さらに魅惑を添えていた。紅色と黄金色との光線が、栗《くり》の木立の下に漂っていた。燐光《りんこう》のような輝きが、牧場から発してるようだった。空は眼のように悦《よろこ》ばしくやさしかった。横の牧場に、一人の娘が刈草を動かしていた。シャツと短い裳衣《しょうい》だけで、頸《くび》と腕とを露《あら》わにして、草をかき集めては積んでいた。短い鼻、広い頬《ほお》、丸い額、そして髪にハンカチをかぶっていた。その日焼けのした陶器のような皮膚は、夕日に赤く染まって、一日の名残りの光を吸い込んでるかと思われた。
その娘がクリストフを魅惑した。彼は※[#「木+無」、第3水準1−86−12]《ぶな》の木によりかかって、彼女が林の縁の方へやって来るのをながめていた。彼女は彼を気にかけていなかった。ちょっと彼女は無頓着《むとんじゃく》な眼つきを上げた。日に焼けた顔の中のきつい青い眼を彼は見た。彼女は彼のすぐそばを通りかかった。そして草を拾うためにかがんだ時、半ば開いたシャツの襟《えり》から、頸筋と背筋との金色のむく毛が彼の眼にとまった。彼のうちにみなぎっていた暗い欲望が一時に破裂した。彼は後ろから彼女に飛びつき、その頸と胴とをつかみ、頭を仰向かせ、半ば開いた彼女の口に自分の口を押しつけた。彼はかわききったかさかさの唇《くちびる》に接吻《せっぷん》し、怒って噛《か》みつこうとしてる彼女の歯にぶっつかった。彼の両手はきつい腕や汗にぬれたシャツの上をなで回った。彼女はもがいた。彼はますますきつく抱きしめ、締め殺してしまいたかった。彼女は身をもぎ離し、叫び、唾《つば》を吐き、手で唇を拭《ふ》き、ののしりたてた。彼は手
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