た。しかし彼はそれに興味を覚えてるのだった。そしてザビーネが化粧に費やしたのと同じだけの時間を、彼女をながめて空費するようになった。彼女は決して嬌飾家《めかしや》ではなかった。平素はむしろ構わない方だった。アマリアやローザほどにも、自分の服装《みなり》に細かな注意を払ってはいなかった。お化粧台の前にいつまでもじっとしていたのも、単なる怠惰からであった。留針を一本さすにも、そのあとで大儀そうな顰《しか》め顔をちょっと鏡に映しながら、その大した努力の骨休めをしなければならなかった。日暮れになりかけても、まだすっかり身仕舞を済ましていなかった。
 ザビーネの仕度《したく》がととのわないうちに、小婢《こおんな》が帰ってしまうこともたびたびだった。すると客は、店の入口の鈴《ベル》を鳴らした。一、二度鈴を鳴らさせ呼ばせておいてから、彼女はようやく椅子《いす》から立上る決心をするのだった。そして笑顔をしながら、ゆっくり出て来た――ゆっくり、客の求むる品物を捜した――そして少し捜しても見付からない時には、あるいは(実際あったことだが)それを取出すのにあまり骨の折れる時には、たとえば室の隅《すみ》から他の隅へ梯子《はしご》をもって行かなければならないような時には、平気で品切れだと言った。それに、店を少しも片付けようともせず、また実際きれてる品物を取寄せようともしなかったので、客の方で根負けがしたり、他の店へ行ったりした。しかしだれも彼女を憎む者はなかった。やさしい声で口をきき何事にも平気でいるこの愛敬者を相手には、腹のたてようがなかった。どんなことを言われても彼女は無頓着《むとんじゃく》だった。そしてだれもよくそのことを感じたので、不平を言い始める者も、それをつづけるだけの勇気がなかった。彼女のあでやかな微笑に笑顔で答えて帰っていった。しかしもう二度と買いに来なかった。彼女はそれを少しも苦にしなかった。そしていつも微笑《ほほえ》んでいた。
 彼女はフロレンスの若い女のような顔つきをしていた。くっきりした高い眉毛《まゆげ》、睫毛《まつげ》の幕の下に半ば開いている灰色の眼。少し脹《は》れた下|眼瞼《まぶた》、その下に寄ってる軽い皺《しわ》。かわいい小さな鼻は、軽やかな曲線を描いて先の方で高まっていた。も一つの小さな曲線が、鼻と上唇《うわくちびる》とを隔て、その上唇は開きかかってる口の上にまき上って、にこやかな懶《ものう》さに唇をとがらした様子になっていた。下唇は少し厚かった。顔の下部は円形《まるがた》で、フィリッポ・リッピの描いた処女のような、仇気《あどけ》ない真面目《まじめ》さをそなえていた。顔色は少し曇っていた。髪はうすい栗《くり》色で、ごたごたに束ねてあり、後ろの方はもじゃもじゃしていた。身体はきゃしゃで、骨組が細く、動作が手ぬるかった。服装《みなり》には大して気をつけていなかった――胸の開いた上着、不足がちなボタン、すり切れた汚ない靴《くつ》、おさんどんじみた様子――けれど、その若々しい優美さ、物やさしさ、本能的な愛敬、などで人の心をひいていた。店の表に出て涼んでいると、通りかかりの若者らはそれに見とれた。そして彼女は、彼らを少しも気にかけてはいなかったが、見られてることに気付かずにはいなかった。すると彼女の眼は、心寄せて見られてるのを感ずるあらゆる女の眼がするように、感謝と喜びとの色を浮かべた。そしてこう言ってるようだった。
「ありがとうよ!……もっと、もっと、見てちょうだい!……」
 しかし、人に好かれることがうれしかったにせよ、彼女は本来の無精から、少しも好かれようとつとめたことはなかった。
 オイレルにフォーゲルの一家にとっては、彼女はいつも悪口の種であった。彼女のことは万事彼らの気色を害した。彼女の怠惰、家の中の乱雑、服装《みなり》のだらしなさ、彼らの注意にたいする馬鹿ていねいな冷淡さ、たえざる笑顔、夫の死に接しても乱されない晴やかさ、娘の病身、店の不景気、または、いかなることがあっても、その慣れきった習慣を、いつもののらくらさを、少しも変えないでやってゆく日々の生活の、細大ともどもの退屈さ加減――彼女の万事が、彼らの気色を害した。そして最もいけないのは、彼女がそんなふうでいて人に好かれることだった。フォーゲル夫人はそれを彼女に許してやることができなかった。すべて正直な人たちはそうだが、オイレル一家の者が存在の理由としてるところのもの、そしておのれの生活を早くもこの世からの煉獄《れんごく》となしてるところのもの、すなわち強力な伝統、真正な主義、無味乾燥な義務、面白みのない労働、燥急、喧騒《けんそう》、口論、悲嘆、健全な悲観主義、そういうものの上に、実際の行為によって皮肉な拒否を投げかけんがために、ザビーネはことさらにそうしてるのだ
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