けでも、彼女はうれしくなった。両手は震え、眼をあげるのを避けた。ルイザはかわいいクリストフのことを話すのがうれしくて、彼が子供のおりのつまらない大しておかしくもない話を、いろいろ語ってきかした。しかしローザからつまらない話だと思われる心配はなかった。子供らしい馬鹿げたことやかわいらしいことをしてるクリストフの子供の姿を眼の前に描きだすことは、ローザにとっては得も言えぬ喜びであり感激であった。あらゆる女の心のうちにある母性的の愛情は、も一つの他の愛情と、彼女のうちで楽しく交り合った。彼女は心からうれしげに笑い、また眼をうるましていた。ルイザは彼女が示してくれる興味に心ひかれた。娘の心の中に起こってる事柄をそれとなく推察したが、それを様子には少しも現わさなかった。けれどそれを楽しみに思っていた。なぜなら、家じゅうで彼女ただ一人が、この娘の心の価値を知っていたから。時とすると、彼女は話をやめて、娘の顔をながめた。ローザはその無言にびっくりして、仕事から眼をあげた。ルイザは微笑《ほほえ》みかけていた。ローザは突然情熱に駆られて彼女の腕の中に身を投げ、彼女の胸に顔を隠した。それからまた二人は、前のように仕事を始め話を始めた。
 夕方、クリストフが帰ってくると、ルイザはローザの世話をありがたく思っており、また自分が立てているちょっとしたある計画に従って、いつもその隣の娘をほめたててやめなかった。クリストフはローザの親切に心を動かされた。彼女が母によく尽してくれたことを見てとった。母の顔はいつもより晴やかになっていた。彼は心をこめてローザに礼を言った。ローザは言葉を言いよどんで、胸騒ぎを隠すために逃げ出した。そういう彼女の方がしゃべりたてる彼女よりも、はるかに悧口《りこう》ではるかに同情が寄せられるように、クリストフには思われた。彼は以前よりも偏見の少ない眼で彼女をながめた。そして思いもかけない美点を彼女のうちに見出した驚きを、少しも隠さなかった。ローザはそれに気づいた。彼女は彼の同情が増してきたのを認め、その同情は愛の方へ進んでいることと考えた。彼女はますます夢想にふけっていった。一身を挙《あ》げて願うことはついにはかならずかなうものだと、青春期の美しい推測で信じかけていた。――そのうえ、彼女の願いにはなんの不当な点があったろうか? 彼女の親切や身をささげたいとのやさしい要求にたいして、クリストフは他人よりもいっそう敏感なるべきはずではなかったろうか?
 しかしクリストフは彼女のことを想《おも》ってはいなかった。彼は彼女を尊重してはいたが、しかし彼女は彼の頭の中になんらの地位をも占めていなかった。彼はそのころ、他の多くのことで頭を満たしていた。クリストフはもはや単なるクリストフではなかった。彼はもはや自分自身がわからなかった。恐るべき働きが彼のうちになされつつあって、彼の存在の根柢までもくつがえしかけていた。

 クリストフは極度の倦怠《けんたい》と不安とを感じていた。訳もないのに気がくじけ、頭が重く、耳や目やすべての感覚が、酔ったようになってがんがん響いた。何物にも精神を集注することができなかった。精神はそれからそれへと飛び回って、疲憊《ひはい》しつくさんとする焦燥のうちに漂っていた。たえず形象が眼にちらついて、眩暈《めまい》がしていた。彼は初めそれを、過度の疲労と春の日の憔悴《しょうすい》とのせいにした。しかし春が過ぎても、不快は募るばかりだった。
 それは、優雅な手でばかり事物に触れることをする詩人らが、青春期の不安、若い天使の悶《もだ》え、年少の肉と心との中における愛欲の眼覚《めざ》め、と名づける所のものであった。しかしそれはあたかも、各局部で亀裂《きれつ》し死滅しまた蘇《よみがえ》る全存在のこの恐るべき危機を、あたかも、信仰も思想も行為も全生命もすべてが、苦悶《くもん》と喜悦との痙攣《けいれん》の中で将《まさ》に絶滅せられ鍛え直されんとしてるかと思われるこの大革命を、児戯に等しいものだと見なし得るかのような名づけ方である。
 彼の身体も魂も発酵しきっていた。彼は好奇心と嫌悪《けんお》の情との交り合った気持でそれをながめるだけで、それとたたかうだけの力はなかった。彼は自分のうちに何が起こってるか少しも了解しなかった。彼の全存在はばらばらになっていた。圧倒してくる懶《ものう》さのうちに日々を過した。働くことは一つの苦痛となった。夜は、重苦しい切れ切れの眠りをし、恐ろしい夢をみ、欲望に駆られた。獣的な魂が彼のうちにあばれていた。熱く燃えたち、汗に浸って、彼はおのれを嫌忌の情でながめた。狂気じみた淫《みだ》らな考えを振り落そうとつとめた。狂人になったのではないかしらとみずから尋ねてみた。
 昼間もそういう獣的な考えからのがれることができ
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