なかった。魂のどん底に沈み込むような気がした。すがりつくべき何物もなかった。渾沌《こんとん》を防ぎとどむべきなんらの防壁もなかった。あらゆる武器は、彼の四方をおごそかにとり巻いていた城壁は、神も芸術も傲慢《ごうまん》も道徳も、皆次々に崩壊してゆき、彼から剥離《はくり》していった。裸体で、縛《いまし》められ、寝かされ、身動きもできないでいる自分を、蛆虫《うじむし》のたかってる死骸《しがい》のような自分を、彼は見出した。彼はむらむらと反発心を覚えた。自分の意志はどうなったのか? 彼はいたずらにそれを呼びかけるだけだった。夢みてると知りながら眼覚めようと欲する、睡眠中の努力にも似ていた。ただ鉛の塊《かたまり》のように夢から夢へと転がりゆくの外はなかった。ついには、争わない方がまだしも楽であることを知った。無感覚な宿命観をもって、彼は争うのをあきらめた。
 規則的な生命の波が中断されたかのようだった。あるいは、その波は地下の裂け目に流れ込み、あるいは猛然とほとばしり出て来た。日々の連鎖が断たれてしまった。時間の平坦《へいたん》な野の中央に、ぽかりと多くの穴が口を開いて、その中に自分の全存在が埋没していった。クリストフはその光景を、自分に無関係なことのようにながめた。すべての物が、またすべての人が――そして彼自身も――彼には見知らぬもののようになっていた。彼はやはり仕事に出かけ務めを果したが、それも自働人形的だった。生命の機関がたえず今にも止るかと思われた。車輪の動きが狂っていた。母や家主一家の者といっしょに食卓についてる時にも、楽員らと聴衆との間で管弦楽団の席についてる時にも、突然彼の脳の中に空虚がうがたれた。彼は惘然《ぼうぜん》として、あたりの渋め顔をながめた。そして訳がわからなかった。彼はみずから尋ねた。
「どんな関係があるのか、この人たちと……?」
 彼はあえて言い得なかった、「私との間に?」とは。
 彼はもはや自分が存在してるかどうかも知らなかったのである。口をきくと、自分の声は別の身体から出てるように思われた。身体を動かすと、その自分の身振りを見るのは、遠くから、高くから――塔の頂からであった。彼は昏迷《こんめい》した様子で額に手を当てた。とんでもないことをしでかしそうだった。
 最も人目の多い時に、いっそう自制しなければならない時に、ことにそんなことが起こった。たとえば、官邸へ行ってる晩だの、公衆の前で演奏してる時だのに。何か渋面をしたり、途方もないことを言ったり、大公爵の鼻を引っ張ったり、あるいは貴婦人の尻《しり》を蹴《け》ったり、そんなことを突然したくてたまらなくなった。ある晩なんかは、管弦楽を指揮しながら、公衆の前で裸体になりたい妄念《もうねん》とたたかいつづけたこともあった。その考えをしりぞけようとつとめる片側から、その考えにまた襲われた。それに負けないためには全力を尽さなければならなかった。その馬鹿げた争いを済ますと、汗にまみれ、頭が空《から》っぽになっていた。まったく狂気になっていた。ある一事をしてはいけないと考えただけで、もうその一事が、固定観念のような激しい執拗《しつよう》さでのしかかってきた。
 かくて、狂わんばかりの力と空虚の中への墜落との連続のうちに、彼の生活は過ぎていった。砂漠《さばく》中の狂風だった。その風はどこから来たのか。その狂妄はなんであったか。彼の四|肢《し》と頭脳とをねじ曲げるそれらの欲望は、いかなる深淵《しんえん》から出て来たのか。狂暴な手で引き絞られた弓にも彼は似ていたが、しかもその手はこわれるまで弓を引き絞り――人に知られぬいかなる標的へ向ってか?――次にはそれを一片の枯木のように投げ捨てようとしていた。何者の餌食《えじき》と彼はなっていたのか。それらのことを彼は考究する勇気がなかった。彼は打ち負かされ恥ずかしめられたのを感じたが、自分の敗亡を正視するのを避けた。彼は疲れておりまた卑怯《ひきょう》であった。昔彼が軽蔑《けいべつ》していた人々、自分に快くない真実を見ることを欲しない人々、彼らを彼は今になって理解した。空費してる時間、投げ出してる仕事、駄目《だめ》になってる未来、そういうことをこの虚無の間にふと思い起こすと、恐ろしくて慄然《りつぜん》とした。しかし少しも反抗しなかった。彼の卑怯《ひきょう》な態度は、虚無の自棄的な肯定のうちに弁解を見出していた。水の流れに浮ぶ漂流物のように虚無のうちに身を任せることに、彼は苦《にが》い快楽を味わっていた。たたかってもなんの役にたとう? 美も善も神も生命も、いかなる種類の存在も、何もなかった。歩いていると往来の中で、にわかに地面がなくなった。土地も空気も光も彼自身も、もはやなかった。何物もなかった。頭に引きずられて前のめりになった。転倒する
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