ぞうお》でアーダを憎んでいた。彼は自分の生活から彼女を抹殺《まっさつ》していた。彼にとってはもはや彼女は存在していなかった。
クリストフはアーダから解放されていた。しかし自分自身から解放されてはいなかった。みずから心をそらそうとつとめ、過去の清浄強健な静安さに帰ろうとつとめても、その甲斐《かい》がなかった。人は過去にもどり得るものではない。道は進みつづけなければならない。いかにふり返っても、眼にはいるのはただ、通り過ぎて来た場所が、かつて宿った家の遠い煙が、記憶の靄《もや》の中に、地平線に隠れてゆくばかりで、なんの役にもたたない。そして情熱に駆られた数か月くらい、人を昔の魂から遠く引離すものはない。道は急に曲り、景色は変る。自分のあとに残してゆくものに、最後の別れを告げるようなものである。
クリストフはそれを承認することができなかった。彼は過去に向って腕を差出した。昔の孤独な忍諦《にんてい》の魂を復活させようと固執した。しかしその魂はもはや存在していなかった。情熱がもたらす多くの廃墟《はいきょ》こそ、情熱それ自身よりもずっと危険である。クリストフはもう愛すまいとし、恋愛を――しばらくの間――軽蔑《けいべつ》しようとしたが、甲斐《かい》がなかった。彼は恋愛の爪痕《つめあと》を受けていた。心の中に一つの空虚があって、それを満たさなければならなかった。一度味わったことのある者を焼きつくすような、情愛と快楽とのあの恐ろしい要求の代りに、たとい反対のものでもいいから何か他の熱情が必要だった。軽蔑の熱情、驕慢な純潔の熱情、徳操の信念の熱情でも。――しかしそれらのものでもやはり足りなかった。もはや彼の飢えをいやすに足りなかった。それはただ一時のごまかしにすぎなかった。彼の生活は、急激な反動の連続――極端から極端への飛躍の連続だった。あるいは、非人間的禁欲主義の規矩《きく》に生活を押込もうとした。そしてもはや物を食べず、水を飲み、歩行や労苦や不眠で身体を痛めつけ、あらゆる楽しみをみずから禁じた。あるいは、自分のような者には力が真の道徳であると思い込んだ。そして快楽の追求にふけった。しかしいずれの場合においても、彼は不幸であった。彼はもはや一人ではいられなかった。また、もはや一人でいずにはおられなかった。
彼にたいする唯一の救済の道は、真の友情を――おそらくはローザの友情を、見出すことであったろう。彼はその中に身をのがれることができたであろう。しかし両家はまったく不和になっていた。もうたがいに顔を合せることもなかった。ただ一度、クリストフはローザに出会った。彼女はミサから出て来るところだった。彼は彼女に近寄るのを躊躇《ちゅうちょ》した。彼女の方は、彼の姿を見ると、やって来ようとする様子をした。しかし彼がついに、石段を降りてる信者たちの人波を分けて、彼女に近づこうとすると、彼女は眼をそらした。彼がそばまで行くと、彼女は冷やかに挨拶《あいさつ》をして、そのまま通り過ぎた。彼はその若い娘の心の中に、強い冷酷な軽蔑《けいべつ》の念があるのを感じた。彼女がやはり自分を愛していて、それをうち明けたがってることを、彼は感じなかった。彼女はしかしその愛を、罪ででもあるようにみずからとがめていた。クリストフを不良で堕落してると信じ、ますます自分と縁遠いものであると信じていた。かくて二人はたがいに永久に取失った。そしてそれは、どちらにとっても、かえっていいことだったろう。彼女は善良ではあったが、彼を理解するには十分の生活力がなかった。彼は愛情と尊重とをほしがってはいたが、喜びも苦しみも空気もない閉じこもった凡庸《ぼんよう》な生活では、息がつけなかったろう。で二人は苦しむことになるわけだった――たがいに苦しませるのを苦しむことになるわけだった。それで結局、二人を隔てた不運は、往々あるように――常にあるように、強壮で永続する者にとっては、幸運であった。
しかし当座の間、それは二人にとっては大きな悲しみであり、不幸であった。ことにクリストフにとってそうだった。最も多く知力をそなえた者から知力を奪い去り、最も善良な者から善良さを奪い去るかの観がある、その仮借なき徳操、その狭小な心は、彼を苛立《いらだ》たせ、彼を傷つけ、反発心によって彼をより放恣《ほうし》な生活に投げ入れたのである。
クリストフはアーダとともに近郊の酒場をぶらついてるうちに、数人の面白い若者と――浮浪者らと、知り合いになっていた。彼らのやり口の呑気《のんき》さと自由さとは、彼にはさほど不快ではなかった。その一人のフリーデマンというのは、彼と同じく音楽家で、オルガニストであって、三十ばかりの年配、才知もあり、自分の職務にも堪能《たんのう》だった。しかし救うべからざる怠惰者《なまけもの》で、その凡庸
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