そびやかし、微笑み、そしてまた仕事にかかった。
彼は彼女の手を取り、縫ってる帽子を取り上げた。
「こんなことはよしてくれ、よしてくれ、そして僕に言ってくれよ……。」
彼女は彼を正面《まとも》にじっと見た、そして待った。クリストフの唇《くちびる》の震えてるのが眼についた。
「君は、」と彼はごく低く言った、「エルンストとアーダとが……。」
彼女は微笑んだ。
「もとよりだわ!」
彼は憤激してきっとなった。
「いや、いや、そんなはずはない! 君だってそう思ってるんじゃないだろう。……嘘《うそ》だ、嘘だ!」
彼女は彼の両肩に手を置いて、笑いこけた。
「あなたは馬鹿ね、ほんとにお馬鹿さんだわ。」
彼は激しく彼女を揺すった。
「笑うなよ。なぜ笑うんだい? ほんとうだとしたら笑いごとじゃない。君はエルンストを愛してるじゃないか……。」
彼女は笑いつづけた。そして彼を引寄せながら、接吻《せっぷん》した。彼は我れ知らず、接吻を返した。しかし自分の唇《くちびる》の上に、まだ兄弟の接吻の熱がさめないその唇を感じた時、彼はつと身を引き、彼女の顔を少し押し離した。彼は尋ねた。
「君は知ってたのか? 皆で諜《しめ》し合したのか?」
彼女は笑いながら「そうだ」と言った。
クリストフは声もたてなかった。憤怒《ふんぬ》の身振りもしなかった。もう息もできないかのように口を開いた。眼を閉じて、両手で胸を押えた。心臓が裂けそうだった。それから地面に横たわり、両手で頭をかかえた。そして子供の時のように、嫌悪《けんお》と絶望の発作に打たれた。
あまりやさしくなかったミルハも、彼を気の毒に思った。自然と親愛な憐《あわ》れみの情に駆られ、彼の上に身をかがめ、やさしい言葉をかけ、また、塩剤の壜《びん》を嗅《か》がせようとした。しかし彼は彼女をいやがって押しのけ、彼女が怖《こわ》がったほどにわかに立上った。彼には復讐《ふくしゅう》の力も欲求もなかった。苦悶《くもん》に引きつった顔で彼女をながめた。
「恥知らずめが、」と彼は絶望の底から言った、「君はどんなひどいことをしてるか、わかっていないんだ……。」
彼女は彼を引止めようとした。しかし彼は、それらの破廉恥な行いや、泥《どろ》のような心の奴《やつ》らや、彼らが自分を陥れようとした不倫な共愛などを、いまいましく唾棄《だき》しながら、林の間を逃げていった。涙を流し、身を震わし、嫌悪《けんお》の念にむせびあげていた。彼女を、彼ら皆を、自分自身を、自分の身体を、自分の心を、嫌忌《けんき》していた。軽侮の暴風が彼のうちに荒れていた。その暴風は久しい前から準備されたものだった。低級な思想、卑しい妥協、また彼が数か月来住んでいた腐爛《ふらん》空粗な雰囲気《ふんいき》などにたいして、早晩反動が来るべきであった。しかし愛したい要求は、愛するものに幻をかけたい要求は、その危機をできるだけ遅らしていた。それがにわかに破裂した。その方がかえってよかった。空気と峻烈《しゅんれつ》な純潔との大風が、氷のごとき朔風《さくふう》が、毒気を吹き払った。嫌悪の情は一撃のもとに、アーダにたいする恋愛を滅ぼしてしまった。
アーダはその仕業《しわざ》によって、クリストフにたいする支配権をいっそう強固にうち建て得ると信じていたが、それはこんどもまた、愛してくれてる男にたいする粗雑な不理解を証明するばかりだった。けがれた心をつなぎ止める嫉妬《しっと》の情も、クリストフのような若い驕慢《きょうまん》な純潔な性情には、ただ反発させるだけだった。しかし彼がことに許し得なかったことには、断じて許し得なかったことには、その裏切りの行為はアーダにあっては、情熱から来たものではなく、また、女の理性がたいていは屈服しがちな不条理下劣な出来心、その一つでもほとんどなかった。否――彼は今や了解した――それは彼女にあっては、彼を堕落させ、彼を恥ずかしめ、自分に対抗する彼の道徳心や信念を罰し、彼を自分と同じ水平面に低下さし、彼を自分の足下にひざまずかせ、自分の害毒の力をみずから承認しようという、ひそかな欲望であった。そして彼は嫌忌《けんき》の念をもってみずから尋ねた、だが多くの者のうちにある汚さんとするこの欲求は――自分や他人のうちの純潔なものを汚さんとするこの欲求は、いったいなんであるのか?――表皮の全面にもはや一点の清い場所も残っていない時初めて幸福を感じ、汚穢《おあい》の中にころがって快楽を味わう、それらの豚のような魂は!……
アーダはクリストフが自分のもとにもどってくるのを、二日ばかり待ってみた。それから気をもみだして、甘ったるい手紙を書き送った。もちろんあの出来事については何にも言及しなかった。クリストフは返事もよこさなかった。彼は言葉にも尽せないほどの深い憎悪《
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