な域を脱するために努力をするよりもむしろ、飢え死にか渇《かわ》き死にかする方を好むほどだった。そして齷齪《あくせく》と生活してる人々の悪口を言いながら、自分の懶惰《らんだ》を慰めていた。その多少重々しい皮肉な冗談は、人を笑わせずにはおかなかった。彼は仲間の者らよりずっと放胆で、地位ある人々をけなすのを――さすがに目配せや略語をもっておずおずとではあったが――はばからなかった。音楽の方面では、世の定説に少しも従わず、当代の偉人らがほしいままにしてる名声を、狡猾《こうかつ》に罵倒《ばとう》することもできた。女も彼からさらに容赦されなかった。ある女ぎらいな僧侶の古い言葉で、クリストフがだれよりもよくその辛辣《しんらつ》さを味わい得た一句を、彼は好んで冗談にもち出していた。
――女は霊の死滅なり[#「女は霊の死滅なり」に傍点]。
クリストフは今や憤懣《ふんまん》のうちにあって、フリーデマンと話をすると幾分の気晴しを見出した。彼はフリーデマンを批判し、その卑俗な嘲弄《ちょうろう》の精神を、いつも長く喜ぶことはできなかった。たえざる嘲笑と否定との調子は、やがては人を苛立《いらだ》たせるものとなり、無力を表白するものであった。しかしそれはまた、凡俗な輩《やから》の自己満足的な愚昧《ぐまい》さをもって、心を和らげてくれるものでもあった。クリストフは心の底ではこの友を軽蔑《けいべつ》しながら、もはや彼なしですますことができなかった。フリーデマンの仲間でさらに下らない曖昧《あいまい》な落伍《らくご》者どもといっしょに、二人がいつも相並んで食卓についてるのが見られた。連中は賭博《とばく》をし、駄弁《だべん》を弄し、幾晩もぶっとおしに酒を飲んだ。クリストフは豚料理と煙草のむかむかする匂《にお》いの中で、突然我に返ることがあった。そして昏迷《こんめい》した眼であたりの人々を見回した。もはや彼らには見覚えがなかった。彼は心を痛めながら考えた。
「俺《おれ》が今いるのはどこなのか? この連中は何者なのか? 俺は此奴《こいつ》らとなんの用があるのか?」
彼らの話や笑声をきくと、彼は胸糞《むなくそ》が悪くなった。しかしその連中と別れるだけの力がなかった。家に帰って、自分の欲望や悔恨と差向いになるのが恐《こわ》かった。彼は駄目になりつつあった。駄目になりつつあることをみずから知っていた。彼は捜し求めた――彼は見た、残忍な明瞭《めいりょう》さをもって、フリーデマンのうちに堕落しきった将来の自分の面影を。そしてその脅威から覚醒させられるどころではなく、かえってうち倒されてしまったほど、ひどい落胆の過程をたどっていた。
彼はもし破滅し得たら、破滅したであろう。しかし幸いにも、他の同種類の人々と同じく、一つの反発力を、破滅にたいして他人のもたない一つの避難所を、もっていた。第一には力があった。知力よりもさらに明敏な、意志よりもさらに強い、死ぬことを肯《がえ》んじない生きんとする本能があった。また次には、芸術家の不思議な好奇心を、真に創造力をそなえた者が皆有している熱烈な没我性を、彼はみずから知らずしてもっていた。いかに愛し、苦しみ、おのれの情熱にまったく身を投げ出しても、やはり彼はそれらのことをじっと見ていた。それらのことは彼のうちにあったが、彼自身ではなかった。無数の小さな魂が、彼のうちで暗々裏に、不可知なしかも確かな定まった一点の方へ、引き寄せられていた。空中で一つの神秘な淵《ふち》から吸い寄せられてる星辰《せいしん》の世界にも似ていた。そういう無意識的な二重の不断の状態は、日常生活が眠りに入って、スフィンクスの眼が、「存在」の多様な面貌《めんぼう》が、睡眠の深淵《しんえん》から浮かび上ってくる眩迷《げんめい》の瞬間に、よく現われてきた。クリストフは一年ばかり前から、ことにひどく幻夢につきまとわれた。その中で彼は、自分が同時に異った数多《あまた》の存在で、往々幾世界と幾世紀とで隔てられた遠い数多の存在[#「存在」に傍点]であることを、いかんともできない幻によって、一瞬間のうちにはっきり感ずるのであった。覚醒の状態になっても、その不安な幻惑がまだ残っていて、しかもその原因がなんであったかは覚えていなかった。それはあたかも、一つの固定観念からくる疲れのようなものであって、観念が消え失《う》せてもその痕跡《こんせき》は残っており、しかもそれがなんであったかはわからない。しかるに、彼の魂が日々の網の目の中で苦しげにもがいてる一方には、注意深い晴朗なも一つの魂が彼のうちで、それらの絶望的な努力を傍観していた。彼の眼にはそれが見えなかった。しかしそれは彼の上に、おのれの隠れた光の反照を投げかけていた。その魂は貪慾《どんよく》であって、現在の男や女や大地や情熱や思想などを
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