静かなやさしいかなり美しい眼をもっていて、こまやかな顔色の鮮《あざや》かさと気質《きだて》のよさそうな様子とのために、かわいらしく見えるはずだったが、ただ、鼻が少しいかつくて据《すわ》りぐあいが悪く、顔つきに重苦しい感じを与え、彼女を馬鹿《ばか》者らしく見せていた。バールの美術館にあるホルバインの描いた若い娘――マイエル町長の娘――すわって、眼を伏せ、膝《ひざ》に両手を置き、蒼白い髪を解いて両肩に垂れて、無格好な鼻を当惑してるような様子でいる、あの娘を、ローザは思い起こさせるのであった。しかし彼女は、自分の鼻をほとんど気にしていなかった。それくらいのことは、彼女の倦《う》むことのない饒舌《じょうぜつ》を少しも妨げなかった。種々なことをしゃべりたてるその鋭い声――すっかり言ってしまう隙《ひま》がないかのようにいつも息を切らして、いつも興奮して熱中しきってる声が、たえず聞こえていた。母や父や祖父から、腹だちまぎれの怒鳴り声を浴びせられても、なお彼女はやめなかった。それにまた彼らが腹だつのも、彼女がいつもしゃべってばかりいるからというよりむしろ、自分らに口をきく隙を与えないからであった。それらの善良で誠実で親切な――正直な人間の精髄ともいうべき――りっぱな人々は、ほとんどすべての美徳をもってはいたが、しかし人生の美趣をなすところの一つの美徳が、彼らには欠けていた、すなわち寡黙の美徳が。

 クリストフは隠忍な気分になっていた。彼の我慢のない怒りっぽい気質は、苦悶《くもん》のために和らげられていた。彼はみやびな魂の残忍な冷酷さを経験したので、優美な点もなくひどく退屈な者ではあるが、しかし人生について厳粛な観念をいだいている善良な人々の価値を、いっそうよく感ずるようになっていた。彼らは喜びもなく生活しているので、弱点のない生活をしているように彼には思われた。彼はそういう人々をりっぱな人だときめていたし、自分の気に入るに違いないときめていたので、ドイツ人の気質として、彼らが実際自分の気に入ってるのだと思い込もうとつとめた。しかしそれはうまくゆかなかった。注目するのが不愉快なようなものは、自分の判断の適宜な安静と自分の生活の愉悦とを乱されるのを恐れて、いっさい見ることを欲せずまた見もしないという、ゲルマン風な阿諛《あゆ》的理想主義が、彼には欠けていた。彼は他人を愛する時、なんらの制限もなくすっかり愛しきろうとしたので、かえって最もよく相手の欠点を感ずるのであった。それは一種の無意識的な公明さであり、やむにやまれぬ真実の欲求であって、そのために彼は、最も親愛なる人にたいして、ますます洞察《どうさつ》的になりますます気むずかしくなるのだった。かくて彼は家主一家の人々の欠点にたいして、ひそかな憤懣《ふんまん》をやがて感ずるにいたった。彼らの方では、少しも自分の欠点を隠そうとはしなかった。厭《いや》なところをすっかりさらけ出していた。そして最もよいところは彼らの内部に隠れていた。クリストフも実際そう考えて、そして自分の不正をみずからとがめながら、最初の印象を脱し去ろうと試み、彼らが大事に隠している長所を見出してやろうと試みた。
 彼はユスツス・オイレル老人と話をすることにつとめた。老人も話が好きだった。彼は祖父がこの老人を愛して激賞していたことを覚えてるので、老人にたいしてひそかな同情を感じていた。好人物のジャン・ミシェルは、クリストフよりもなおいっそう、友人の上に幻を築き上げる幸福な能力をもっていたのである。クリストフもそのことに気づいていた。彼は祖父にたいするオイレルの思い出を知ろうとつとめたが無駄であった。彼がオイレルから引き出し得るものは、ジャン・ミシェルのかなりおかしな色|褪《あ》せた面影と、なんの面白みもない断片的な会話の文句ばかりだった。オイレルの話はいつもきまってこういう言葉で始められた。
「あの気の毒なお前のお祖父《じい》さんに私がいつも言ってたとおり……。」
 オイレルは自分で言ったことより以外には、何にも耳に止めていなかった。
 恐らくジャン・ミシェルの方でも、同じような聴《き》き方をしていたであろう。多くの友誼《ゆうぎ》は、他人相手に自分のことを語るための、相互|阿諛《あゆ》の結合にすぎない。しかし少なくともジャン・ミシェルは、冗弁の楽しみにあれほど無邪気にふけってはいたが、やたらに注ぎかける同情心をももっていた。彼は何にでも興味をもった。新時代の驚くべき発明を目撃したり、その思想に関係したりするために、もう十五年とは生き延びられないことを残念がっていた。彼は生活の最も大切な長所をそなえていた、すなわち、長い年月にも少しも衰えないで毎朝また蘇《よみがえ》ってくる新鮮な好奇心を。ただその天性を利用するだけの十分な才能をもってい
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