なかった。しかしそういう天性を彼はうらやむに相違ないような才人が、世にはいかに多いことだろう! 多くの人は、二十歳か三十歳で死ぬものである。その年齢を過ぎると、もはや自分自身の反映にすぎなくなる。彼らの残りの生涯《しょうがい》は、自己|真似《まね》をすることのうちに過ぎてゆき、昔生存[#「生存」に傍点]していたころに言い為《な》し考えあるいは愛したところのことを、日ごとにますます機械的な渋滞的なやり方でくり返してゆくことのうちに、流れ去ってゆくのである。
オイレル老人が生存[#「生存」に傍点]したのはずっと以前のことであったし、またきわめてわずかしか生存[#「生存」に傍点]しなかったので、貧弱なものしか残ってはいなかった。彼は昔の職業と家庭生活とに関すること以外には、何にも知らなかったし、また知ろうともしなかった。あらゆることについて、青年時代から変らない既成観念をいだいていた。彼は芸術に通じてると自称していた。しかしある定評のある名前を知ってるだけで満足し、それについていつも誇張したきまり文句をくり返していた。その他は皆つまらない無きに等しいものばかりだった。近代の芸術家のことを言われると、耳を貸しもしないで他のことを話した。彼は音楽が大好きであるとみずから言い、クリストフに演奏を頼んだ。しかしクリストフが、一、二度その願いをいれてひき始めると、老人は娘を相手に声高く話し出した。あたかも音楽は、音楽以外のものにたいする彼の興味を募らしてるがようだった。クリストフは嚇《かっ》として、曲の半ばで立ち上った。だれもそれを気にかけなかった。ただある古い曲調――三、四の――あるものはきわめて麗わしく、あるものはきわめて醜劣であったが、いずれも皆等しく定評のある曲調、それだけがとくに、比較的沈黙を受け、絶対に喝采《かっさい》を受けた。初めの音律からもう老人は、恍惚《こうこつ》となり、眼に涙を浮かべた。それは現在味わってる愉悦よりもむしろ、昔味わった愉悦のためであった。それらの曲調のあるもの、たとえばベートーヴェンのアデライド[#「アデライド」に傍点]のごときは、クリストフにとっても親愛なものではあったが、彼はついにそれらを忌みきらうようになった。老人はよくそれらの最初の小節を低吟して、「これこそ音楽だ」と断言し、「旋律《メロディー》のない近代の安音楽」との軽蔑《けいべつ》的な比較をもち出した。――まさしく彼は音楽を少しも知ってはいなかった。
婿の方はも少し教養があって、芸術界の気運にも通じていた。しかしそれだけにかえって悪かった。なぜなら、自分の判断にいつも誹謗《ひぼう》的精神を加えていたから。それでも趣味や知力が欠けてるのではなかった。ただ近代のものを賞賛する決心がつかなかったのである。もしモーツァルトやベートーヴェンが彼と同時代の人であったら、やはり彼らをも非難したろうし、もしワグナーやリヒアルト・シュトラウスが彼より一世紀も前に死んでいたら、彼らの価値を認めたことであろう。彼の憂鬱《ゆううつ》な性質は、現在自分の生存中に生きてる偉人があるということを、受けいれ得なかった。そう考えることは不愉快だった。彼は自分の失敗の生涯のために非常に気むずかしくなっていたので、生涯はだれにとっても失敗なものであるし、失敗であらざるを得ないものであって、その反対を信ずる者は、もしくは反対だと主張する者は、馬鹿か道化か、二つのうちの一つだということを、執拗《しつよう》に思い込んでいた。
それで彼は、名高い新人らのことを、苦々《にがにが》しい皮肉な調子でしか話さなかった。そして彼は愚鈍ではなかったので、新人らの弱い滑稽《こっけい》な一面を、一目で見てとることができた。新しい名前を聞くたびに、彼は軽悔の色を浮べた。その人について何にも知らない前からその人を非難しようとしていた――なぜなら知らない人であるから。クリストフに対していくらか同情をもっていたのも、この人間ぎらいな少年が彼と同様に人生はいけないものだと考えてると思ったからであるし、そのうえこの少年に天才がないと思ってたからである。くよくよしてる不平満々たる小人の魂を最もよく相近づけるものは、おたがいの無力を認むることである。それからまた、健全な人々に健康の趣味を最もよく与えるものは、自分が幸福でないから他人の幸福を否定しようとする凡庸《ぼんよう》人や病人の愚かな悲観主義に接することである。クリストフはそれを経験した。それらの陰気な悲観思想は元来彼には親しいものだった。しかし彼が驚いたのは、それをフォーゲルの口から聞くことであり、また自分がもはやそれに染んでいないことだった。それらの思想は彼に反対なものとなっていた。彼はそれらの思想に気色を損じた。
彼はアマリアの挙措にはなおいっそう反感をい
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