届かない髯《ひげ》を絶えず手でしごいていた。ごく善人で、かなり廉直で、きわめて道徳家だったので、クリストフの祖父とはよく気が合っていた。祖父に似てるとさえ言われていた。実際、彼は祖父と同時代に属すべき人で、同じ主義のもとに育てられた人だった。しかし彼には、ジャン・ミシェルのような強い肉体的活力が欠けていた。すなわち、多くの点において彼と同じような考えをいだきながら、根本においてはほとんど彼に似寄っていなかった。なぜなら、人間を作るところのものは、思想よりもむしろ体質の方が重《おも》であるから。理知によって人間の間には、いかなる人為的なあるいは実際的な区別がたてられようとも、人類の最も大なる区別は、健康な人とそうでない人とである。オイレル老人はその前者には属しなかった。彼は祖父のように道徳を説いていた。しかし彼の道徳は、祖父の道徳とは同じものではなかった。彼の道徳は、祖父のような強健な胃と肺と快活さとをそなえていなかった。彼のうちにある、また彼の家族のうちにあるすべては、もっと貧弱狭小な設計の上に立てられていた。四十年間役人をし、今では隠退していた彼は、閑散の非哀を苦しんでいた。晩年のために内部生活の源泉をたいせつにしなかった老人らにとっては、この無為閑散ということが非常に重苦しくなるものである。先天的あるいは後天的なあらゆる習慣は、職業柄のあらゆる習慣は、オイレル老人にある小心さと悲しみとを与えていた。そしてそれはまた、おのおのの子供のうちにも幾分か存していた。
 婿のフォーゲルは、司法局の役人で、五十歳ばかりだった。背が高く、強壮で、頭がすっかり禿《は》げ、金縁眼鏡で顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》をはさみつけ、かなりの容貌《ようぼう》だった。彼はみずから病気だと思っていた。そして実際、みずから思ってるような病気は明かに一つももってはいなかったが、つまらない職務のために精神はとがり、坐居《ざきょ》生活のために身体はやや衰退して、病気には違いなかった。もとよりごく勤勉で、価値のない男でもなく、多少の教養をもそなえてはいたが、不条理な近代生活の犠牲者であって、役所の椅子《いす》に縛りつけられた多くの役人と同じく、憂鬱病《ヒポコンデリー》の悪魔に苦しめられていた。ゲーテが、自分では注意してよく避けながらも、それを憐《あわ》れんで、「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者[#「陰気な非ギリシャ的な憂鬱病者」に傍点]」と呼んでいた、あの不幸な人間の一人であった。
 アマリアはどちらとも異っていた。強健で、騒々しく、活発で、夫の愚痴をきいても少しも気の毒と思わなかった。夫を荒々しく励ましていた。しかし常にいっしょに住んでいると、いかなる力もくじけるものである。一つの家庭において、二人のいずれかが神経衰弱だと、数年後には、二人とも神経衰弱になってることがしばしばである。アマリアはフォーゲルに強い言葉をかけはしたが、すぐその後では、彼よりもなおひどくみずから嘆くようになった。荒々しい素振りから悲嘆へと急激に移っていって、少しも夫のためにはならなかった。些細《ささい》なことにも騒々しく騒ぎたてながら、かえって彼の病を募らした。そしてついには、わずかな愚痴にもそういう大|袈裟《げさ》な反響を返されるのにおびえきってる不幸なフォーゲルを、すっかり圧倒してしまったばかりでなく、また自分自身をも圧倒してしまった。こんどは自分から、自分の丈夫な健康状態や、父や娘や息子の丈夫な健康状態などについて、理由もないのに嘆くようになった。それが一種の病癖となった。そして何度も口に上せるために、しまいにはそれをほんとうと思い込んだ。ちょっとした風邪《かぜ》をも大袈裟に考えた。すべてが不安の種となった。丈夫に暮してると、後《あと》で病気になりはすまいかと考えて気をもんだ。そういうふうにして、生活は絶えざる杞憂《きゆう》のうちに過ぎていった。けれども、そのためにだれも加減が悪くなる者はなかった。その絶え間もない嘆きの習慣が、皆の健康を維持するのに役だってるがようだった。だれも皆平素のとおり、食い眠り働いていた。一家の生活はそのために弛緩《しかん》してはいなかった。アマリアの活動的な性質は、朝から晩まで、家の上から下まで、始終動き回っても満足しなかった。まわりの者まで皆精を出さなければ承知しなかった。そして家具を動かしたり、敷石を洗ったり、床石をみがいたりして、声や足音が立ち乱れ、たえず忙しく騒々しかった。
 二人の子供は、だれにも安閑としてることを許さないその騒ぎ好きな権力のもとに圧伏されて、それに服従するのが自然だと思ってるらしかった。男の子のレオンハルトは、なんとなくきれいな顔つきで、几帳面《きちょうめん》な様子をしていた。少女のローザは、金髪で、青い
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