室の中にごたごた積み重ねてあり、夜になりかかってはいるしするので、クリストフとルイザとは、一人は箱の上に、一人は袋の上に、疲れはててがっかりして腰を降ろしていたが、その時階段に、小さな空咳《からせき》が聞こえた。扉《とびら》をたたく音がした。オイレル老人がはいって来た。親愛なる借家人たちの邪魔をするのをていねいに詫《わ》びて、それから、よくやって来てくれたその最初の晩を祝うために、家の者といっしょに親しく晩餐《ばんさん》を共にしてほしいと言い添えた。ルイザは悲しみに沈んでいて、断りたいと思った。クリストフもまた、その内輪の会合にあまり気が進まなかった。しかし老人はたって勧めた。でクリストフは、新しい家の最初の晩を悲しい考えにふけってばかり過ごすのは、母にとってよくないと考えて、彼女に無理に承諾さした。
二人は階下《した》に降りて行った。そこには一家の者が皆集まっていた。老人、その娘、婿のフォーゲル、クリストフより少し年下の男女の二人の孫。皆彼らを取り巻いて、よく来てくれたと言い、疲れてやしないかと尋ね、部屋《へや》は気に入ったか、用はないか、などと種々なことを尋ねた。そして皆が一度に口をきくので、クリストフはまごついてしまって、何が何やらわからなかった。もうスープが出ていた。彼らは食卓についた。しかし騒々しい話はなおつづいた。オイレルの娘のアマリアは、その近所の特別な事柄、町内の地形、自分の家の習慣や特徴、牛乳屋が通る時刻、彼女が起き上る時刻、種々な用達人や支払いの値段、などをすぐルイザに知らせ始めた。すっかり説明しつくしてしまわないうちは、彼女を許さなかった。ルイザはうとうとしながら、それらの説明に気を向けてるふうを示そうとつとめた。しかし彼女がしいて口に出す言葉は、何にも了解していないことを示すものばかりで、そのためアマリアは苛立《いらだ》った声をたてて、なおいっそうくどくどとしゃべってきかした。老書記のオイレルは、音楽家生活の困難なことをクリストフに説明していた。アマリアの娘のローザは、クリストフの一方に並んですわっていたが、食事の初めからのべつに、息をつく隙《ひま》もないほどべらべらしゃべっていた。文句の途中で息を切らしながら、すぐにまたしゃべりだした。フォーゲルは陰気な顔をして、食物の不平を言っていた。そしてこの問題が、激しい議論の種となった。アマリアもオイレルも娘も、話をやめてその議論に加わった。シチューの中に塩が多すぎるか足りないかということについて、はてしない争論がもち上った。皆たがいに尋ね合ったが、同じ意見は一つもなかった。各自に隣りの者の味覚を軽蔑《けいべつ》して、自分の味覚だけが正当で健全であると思っていた。「最後の審判」の日までもその議論はつづくかと思われた。
しかしついに、天気の悪さをいっしょに嘆くことに、皆折合いがついた。彼らはルイザとクリストフとの苦しみを親切に気の毒がってくれ、クリストフが感動したほどやさしい言葉で、二人の勇気ある行いを誉《ほ》めてくれた。ただにその借家人たちの不幸ばかりではなく、自分たちの不幸や、友人やすべての知人らの不幸をも、満足げにもち出した。そして善人は常に不幸で利己主義者や不正直な者らにしか喜びはないものだということに、彼らの意見は一致した。その結論としては、生活は悲しいものだということ、生活はなんの役にもたたないということ、苦しむために生きるよりも、もとより神の思召には適《かな》わないが、死んだ方がずっとましであるということ、などであった。そういう考えは、クリストフの現在の悲観説に近いものだったので、彼はその家主たちにいっそう敬意をいだいて、その些細《ささい》な欠点には眼をつぶってやった。
彼と母とは、散らかった室にまた上ってゆくと、悲しいがっかりした気持を覚えたが、しかし前ほど孤独な気はしなかった。そしてクリストフは、疲労と町内の騒々しさとに眠られないで、夜のうちに眼を開きながら、壁を震わす重い馬車の響きや、下の階に眠ってる一家の者の寝息などを聞きつつ、一方では、自分と同じように苦しんでいて、自分を理解しているらしく、また自分も向うを理解できるように思われる、それらの善良な――実を言えば多少煩わしい――人々の間にあって、幸福ではないまでも、前ほど不幸ではないだろうと、しいて思い込もうとした。
しかし彼は、ついにうとうとしたかと思うと、夜明けごろから不快にも眼をさまさせられた。議論を始めた隣りの人たちの声が響いたし、中庭や階段をやたらに水を注いで洗うために、猛烈に動かされているポンプのきしる音が、響いたからであった。
ユスツス・オイレルは、背のかがんだ小さな老人で、落着きのない陰気な眼をし、皺《しわ》寄ったでこぼこの赤ら顔で、頤《あご》は歯がぬけ、手入れの
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