いかねた。文句を途中で言いさして、曖昧《あいまい》のままにした。時とすると、自分で言ってる事柄を恥ずかしがることもあった。息子の顔をながめて話の中途で口をつぐんだ。しかし彼は彼女の手を握りしめてやった。彼女は安心を覚えた。彼はその子供らしいまた母親たる魂にたいして、愛情と憐憫《れんびん》とをしみじみ感じた。幼い時彼はその魂の中に身を縮めていたのであるが、今では向うから彼に支持を求めていた。そして彼以外にはだれにも興味のないその些細《ささい》な無駄話や、常に平凡で喜びもなかったがルイザには限りない価があるように思われた生活の、つまらないそれらの思い出話などに、彼はもの悲しい楽しみを覚えた。また時には、彼女の言葉をさえぎろうとすることもあった。それらの思い出がなおいっそう彼女を悲しませはすまいかと恐れた。そして彼女に寝るように勧めた。彼女は彼の意をさとって、感謝の眼つきで彼に言った。
「いいえ、この方が私には気持がいいんだよ。も少しこうしていましょう。」
 二人は夜が更《ふ》けてあたりが寝静まるまで、そのままじっとしていた。それからお寝《やす》みなさいと挨拶《あいさつ》をかわした、彼女は苦しみの荷の一部を肩から降ろしていくらかほっとしながら、そして彼は自分に新しい荷が加わったことを多少悲しく思いながら。
 移転の日が迫ってきた。その前日、二人はいつもより長い間、室に燈火もつけずにじっとしていた。たがいに言葉もかわさなかった。時々ルイザは溜息《ためいき》をついた、「ああ、ああ!」クリストフは翌日の引越の種々な細かい事物にばかり注意を向けようとつとめた。彼女は寝ようとしなかった。彼はやさしく彼女を無理に寝さした。しかし彼自身も、自分の室に上っていってから、長く寝床にはいらなかった。窓からのぞき出して、闇《やみ》の中を透しながめ、家の下にある河の真暗《まっくら》な流れを、最後にも一度見ようとした。ミンナの庭に立ち並んだ大木の間に、風の吹き過ぎる音が聞えていた。空は真暗だった。街路には通る人もなかった。冷たい雨が落ち始めていた。風見《かざみ》がきしっていた。隣りの家で子供が泣いていた。夜は重苦しい悲しみで地上にのしかかっていた。時計の時間の単調な音や、三十分と十五分との粗雑な音が、屋根の雨音に点綴《てんてい》されてる陰鬱《いんうつ》な沈黙の中に、相次いで落ちていた。
 クリストフが心凍えて、ついに寝ようと思った時、下の窓の閉まる音が聞えた。そして彼は寝床の中で、過去に執着するのは貧しい人々にとっては酷《むご》たらしいことであると考えた。なぜなら、貧しい人々には、富める人々のように過去をもつの権利がないから。彼らは一軒の家をも、おのれの思い出を匿《かくま》うべき一隅の場所をも、もってはいない。彼らの喜び、彼らの苦しみ、彼らの日々はすべて、風のまにまに吹き散らされている。

 翌日、二人は激しい雨を冒して、見すぼらしい道具を新しい住居へ運んでいった。老家具商のフィシェルは、荷車と小馬とを貸してくれた。自分でもやって来て手伝ってくれた。しかし二人は道具をすべてもって行くことができなかった。こんどの住居は前のよりはるかに狭かったからである。最も古い最も不用な品々は置いてゆくように、クリストフは母に決心させなければならなかった。それは容易ではなかった。ごくつまらない物も彼女にとっては大事だった。跛足のテーブルも、こわれた椅子《いす》も、何物をも彼女は犠牲にしたくなかった。フィシェルも祖父と古くから親しくしていたので押しがきくところから、クリストフと口をそろえて、小言を言わなければならなかった。そして元来人がよく、また彼女の苦しみがよくわかっていたから、それらの大事なこわれ物の若干は、彼女がまた取りに来ることのできる日まで保管しておいてやると、約束しなければならなかった。すると彼女はようやく、胸が張り裂けるような思いをしながら、それを手離すことに承知した。
 二人の弟には、前もって引越のことを知らしておいた。しかしエルンストは前日、来られないと言いに来た。ロドルフは午《ひる》ごろちょっと姿を見せただけだった。道具が馬車に積まれるのをながめ、少しばかり世話をやいて、忙しそうに帰って行った。
 一同は泥濘《ねかるみ》の街路を進みだした。ねちねちした舗石の上にすべりがちな馬を、クリストフは手綱でとらえていた。ルイザは息子《むすこ》と並んで歩きながら、彼を雨にあてまいとした。その次には、湿っぽい部屋《へや》の中に身を落ちつける侘《わ》びしい仕事があった。低い空の蒼白《あおじろ》い反映のために、部屋はいっそう陰鬱になっていた。家主一家の者が種々注意してくれなかったら、二人は重くのしかかってくる落胆の情に抵抗することができなかったろう。馬車は帰ってしまい、道具は
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