まった。
「ああ、私にゃできない、できない。」と彼女は嘆息した。「いつまでたっても片付けきれないよ。」
彼はびっくりした。彼女の方へ身をかがめて、両手でその額を撫《な》でてやった。
「ねえ、お母さん、どうしたんです!」と彼は言った。「手伝いましょうか。病気ですか。」
彼女は答えなかった。心の中ですすり泣いていた。彼は彼女の両手を取り、その前にひざまずき、室内の薄暗がりの中で彼女の顔をよく見ようとした。
「お母さん!」と彼は心配して言った。
ルイザは彼の肩に額をもたせ、我れを忘れて涙にむせんだ。
「お前、」と彼女は彼に身を寄せながらくり返し言った、「お前……私を見捨てやしないでしょうね。約束しておくれ。私を見捨てやしないでしょうね。」
彼は愛憐《あいれん》の情に胸がいっぱいになった。
「ええ、お母さん、見捨てやしません。どうしてそんなことを考えるんです。」
「私はほんとに不幸なのだよ! 皆《みんな》私を捨ててしまった、皆《みんな》……。」
彼女は周囲の品物を示した。彼女が言ってるのは、品物のことだか、息子《むすこ》たちのことだか、死んだ人たちのことだか、どれともわからなかった。
「お前は私といっしょにいてくれるでしょうね。私を捨てやしないでしょうね。……お前にまで行かれてしまったら、私はどうなるでしょう?」
「私は行きやしません。いっしょに暮しましょう。もう泣いちゃいけません。私は誓います。」
彼女は泣きやむことができずに、なお泣きつづけた。彼は自分のハンケチでその眼を拭《ふ》いてやった。
「どうしたんです、お母さん。苦しいんですか。」
「私にも、どうしたんだか、私にもわからないよ。」
彼女はつとめて落着こうとし、微笑《ほほえ》もうとした。
「いくら考えたって私は駄目《だめ》なんだよ。ちょっとしたことにまた涙が出て来るからね。……そらねえ、また涙が出て来たよ。……堪忍しておくれ。私は馬鹿になってしまった。年を取ってしまった。もう元気がない。もう何にも面白くない。もうなんの役にもたたなくなった。こんな物といっしょに埋めてもらいたいんだよ……。」
彼は彼女を子供のように胸に抱きしめてやった。
「心配してはいけません。気をお休めなさい。もう考えないでください……。」
彼女はしだいに気が和らいできた。
「馬鹿げてるね、私は恥ずかしいよ……。でも、私はどうしたんだろう、どうしたんだろうねえ。」
この働き者の老婆《ろうば》は、どうして自分の力がにわかに折れくじけてしまったか、それを理解することができなかった。そしてただ恥ずかしい思いをした。彼はそれに気づかないふりを装った。
「少しくたびれたんですよ、お母さん。」と彼はつとめて平気な調子で言った。「なんでもないことでしょう。今によくなります……。」
しかし彼も心配になった。幼い時から彼は、あらゆる艱難《かんなん》に黙って堪えてゆく雄々しい忍従的な彼女の姿を、いつも見慣れていた。そして今のその悄沈《しょうちん》したさまが、彼には心配だった。
彼は彼女に手伝って、床《ゆか》の上に散らかってる品物を片付けた。時々彼女は、ある品に心止めてぐずついた。しかし彼はそれを彼女の手から静かに取上げた。彼女はなされるままになっていた。
それ以来彼は、前よりもつとめて母といっしょにいるようにした。仕事を終えると、自分の室に閉じこもらないで、彼女のところへ行った。彼女がいかほど孤独であるかを、また孤独に堪えるほど十分強くないことを、彼は感じていた。彼女をそのまま一人で置くのは危険だった。
夕方には、往来に面した窓を開《あ》けて、そこで彼は彼女のそばにすわった。野の景色《けしき》が次第に見えなくなっていった。人々は家に帰りかけていた。小さな燈火が遠くの家々にともっていた。二人は幾度となくそれらのさまを見たことがあった。しかしもう間もなく、それも見られなくなるのだった。二人は途切れがちの言葉をかわした。前からわかってる知れきった夕の些細《ささい》な出来事を、いつも新しい興味で、たがいに話し合った。長く黙り込んでることもあった。あるいはまたルイザは、頭に浮かんでくる思い出を、きれぎれの話を、なぜともなく持出すこともあった。自分を愛してくれる心がそばにあることを感ずると、彼女の舌は少し解けてきた。つとめて話をしようとした。でもそれはむずかしかった。彼女は家の者からわきに離れてる習慣がついていたのである。自分がいっしょに話をするには、息子《むすこ》たちや夫はあまりに怜悧《れいり》すぎると思っていた。皆の話に口を出しかねていた。それでクリストフの孝心深い親切は、彼女にとっては新しいことで、この上もなくうれしいことだった。しかしまたそれに気おくれがした。容易に言葉が出て来なかった。考えをはっきり言
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