少なく、成行のままにあきらめ、事変を理解しようともつとめないで、他人を批判し非難することを慎しんでいた。自分にはその権利がないと信じていた。自分をきわめて愚かだと考えて、他人が自分と同じように考えないから間違ってるとは見なさなかった。自分の道徳と信念との一徹な規則を他人にも押しつけようとすることは、彼女には笑うべきことのように思われた。そのうえ、彼女の道徳と信念とは、すべて本能的なものであった。自分一身に関しては敬虔《けいけん》で純潔であった彼女は、ある種の欠点にたいする下層の人々の寛大さをもって、他人の行いには眼をつぶっていた。かつて舅《しゅうと》のジャン・ミシェルが彼女にたいしていだいていた不満の一つも、そういう点にあった。彼女は尊むべき人々とそうでない人々との間に、充分の区別をつけていなかった。相当の婦人なら知らないふりをすべきであるような、付近で評判のあだっぽい娘らにも、往来や市場なんかで、立止って親しく握手をしたり話しかけたりすることを、平気でやっていた。善悪を区別することは、罰したり許したりすることは、これを神にうち任していた。彼女が他人に求めるところは、たがいに生活を気楽ならしむるためにごく必要な、多少のやさしい同情ばかりであった。親切でさえあれば、というのが彼女にとっては肝要なことだった。
しかしフォーゲル家に住んで以来、彼女は皆から変化されつつあった。当時彼女はがっかりして反抗するだけの力がなかっただけになおさら、一家の誹謗《ひぼう》的な精神は容易に彼女を餌食《えじき》にしてしまった。アマリアが彼女を奪い取った。朝から晩まで、二人いっしょに仕事をし、アマリア一人口をききながら、ずっと差向いでいるうちに、受身で圧倒されがちなルイザは、知らず知らずのうちに、すべてを判断し批評するような習慣になってしまった。フォーゲル夫人はクリストフの行状にたいする自分の考えを、彼女に言わないではおかなかった。ルイザの平気なのが癪《しゃく》にさわっていた。自分たち一家の者が憤慨してる事柄をルイザがいっこう気にも留めないのは、不都合なことだと考えていた。彼女の心をすっかり乱させることができないのを、不満に思っていた。クリストフはそれに気がついた。ルイザは思い切って彼をとがめることができなかった。しかし毎日、小心な不安な執拗《しつよう》な意見がくり返された。彼が苛立《いらだ》って乱暴な返辞をすると、もう彼女はなんとも言わなかった。しかしその眼にはやはり心痛の色があるのを、彼は読みとった。家にもどってきて、彼女が泣いてたことに気づくことも時々あった。彼は母の性質をよく知っていたので、そういう心配は彼女自身の心から出たものでないことを確信した。――そしてどこからその心配が来るかを知った。
彼はそれを片付けてしまおうと決心した。ある晩、ルイザは涙を押えきれなくなって、食事の最中に立上った。クリストフはその悲しみの種を聞く隙《ひま》もなかった。彼は大胯《おおまた》に階段をまたぎ降り、フォーゲル一家のもとに押しかけていった。彼は憤りに燃えたっていた。母にたいするフォーゲル夫人の振舞を怒ってるばかりではなかった。ローザを煽動《せんどう》して敵意をもたせたこと、ザビーネを中傷したこと、その他数か月来しいて我慢してきた数々のこと、その仕返しをしてやらなければならなかった。彼は数か月以来、積り積った恨みの荷を背負っていて、それを早くおろしてしまおうとした。
彼はフォーゲル夫人の室に飛び込んだ。そして、しずめようとしてもなお激怒に震える声で、母にどんなことをいってあんなふうにならせたのかと詰問した。
アマリアはそれを非常に悪くとった。自分の勝手なことを言ったまでであると答え、自分の行いをだれにも報告する必要はない――まして彼に報告する必要はない、と答えた。そして日ごろ用意していた言葉を言ってやるために、その機会に乗じてつけ加えた、もしルイザが悲しんでるなら、その理由は彼自身の行状以外に捜すに及ばない、彼の行状は、彼自身にとっては恥辱であり、他のすべての人にとっては醜怪事であると。
クリストフが攻撃を始めるには、向うからの一つの攻撃で充分だった。彼は激昂《げっこう》して叫んだ、自分の行状は自分だけに関するものであること、自分の行状がフォーゲル夫人の気に入ろうが入るまいが、そんなことはいっこう構わないこと、もし不平を言いたければ、自分に向って言ってもらいたいこと、言いたいことはなんでも自分に向って言えるはずだということ、言われたって自分は雨が落ちかかったほどにも思わないということ、しかし自分は断じて禁ずる[#「禁ずる」に傍点]――(よく聞くがいい)――何一つ母に言うのを禁ずる[#「禁ずる」に傍点]ということ、そして、病身の年老いた憐《あわ》れな女を
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