(やはりつづけて希望はかけていたろうけれど。……彼女は永久に希望をかけているだろう!)――しかし彼女は、クリストフを偶像視していた。しかるにその偶像がこわれかけたのである。それは最もつらい苦痛だった……彼女の純潔な心のうちでは、彼から蔑視《べっし》されることよりも、さらに残忍な苦痛だった。彼女は清教徒的なやり方で、偏狭な道徳のうちに育てられ、その道徳を熱心に信じていたので、クリストフについて聞き知った事柄は、ただに彼女を悲しませたばかりでなく、また嫌悪《けんお》の情さえも起こさせた。彼がザビーネを愛してる時から、彼女はすでに苦しんでいた。その自分の崇拝者にたいする幻影を、すでに幾何《いくばく》か失いかけた。クリストフがかくも凡庸《ぼんよう》な魂を愛するということは、不可解なまたあまり名誉でないことのように彼女には思われた。しかし少なくとも、その愛は純粋であって、かつザビーネはそれに相当し得ないでもなかった。最後に死が通り過ぎて、すべてを清めたのであった……。しかしすぐそのあとで、クリストフが他の女を愛そうとは――しかもいかなる女か!――それは卑しいことであり、嫌悪すべきことだった! 彼女は彼に対抗して、死んだ女を庇護《ひご》するようになった。その女を忘れたことを、彼に許し得なかった。……が嗚呼《ああ》、彼は彼女よりもなおいっそうそのことを考えていたのである! しかし彼女は、熱烈な心の中に二つの感情を同時にいれ得る余地があろうとは、夢にも思わなかった。現在を犠牲にしなければ過去に忠実であり得ないものだと、信じていた。清くて冷やかな彼女は、人生についてもまたクリストフについても、なんらの観念をも得ていなかった。すべてが彼女自身と同じように、純粋で狭小で義務に服従していなければいけないように思われた。彼女は心身ともすべてにおいて謙譲であって、ただ一つの誇りをしかもっていなかった。それは純潔の誇りだった。そして自分についてもまた他人についても、それを要求していた。クリストフがかくまで堕落したことを、彼女は許してやり得なかったし、永久に許してやり得なかったであろう。
 クリストフは彼女に、弁解するつもりではないとしても、とにかく話をしようとつとめた。――(純潔無邪気な娘に何を言い得ることがあったろう?)――ただ、自分は彼女の友であること、彼女の尊重を切望してること、自分はまだそれを受けるに足りること、などを彼女に確信さしてやりたかった。しかしローザはいかめしく口をつぐんで、彼を避けていた。彼は彼女から軽蔑されてることを感じた。
 彼はそれを苦しみまた憤った。自分はその軽蔑《けいべつ》に相当する者でない、という自覚があった。それでも彼はついに狼狽《ろうばい》してしまった。自分に罪があると考えた。そして最も苦々しい非難を、ザビーネのことを考えながら、みずから自分に浴せた。彼はみずから自分を苦しめた。
「嗚呼《ああ》、どうしてこんなはずがあろうか? どうして私はこうなのか?……」
 しかし彼は自分を押し流す流れに抵抗することができなかった。彼は人生は罪悪的なものだと考えた。そして人生を見ないで生きるために眼を閉じた。それほど、生きたく、愛したく、幸福でありたかった。……確かに、彼の愛のうちにはなんら軽蔑《けいべつ》すべきものはなかった。アーダを愛するのは、賢明でなく怜悧《れいり》でなくたいして幸福でさえないかもしれないと、彼はよく知っていた。しかしなんの賤《いや》しい点があったろうか? たとい――(彼は信じまいとつとめていたが)――アーダには大して精神的価値がなかったと仮定しても、彼女にたいする彼の愛は、何によってそれだけ純潔の度が少ないと言えたであろうか? 愛は愛する者のうちにあるので、愛される者のうちにあるのではない。純潔な者にあっては、すべてが純潔だ。強壮な者や健全な者にあっては、すべてが純潔だ。愛は、ある種の小鳥をその最も美しい色彩で飾りたてるものであり、正直な魂から、その最も高尚なものを引出してくる。愛人にふさわしくないものは何一つ示したくないという欲求から、人はもはや、愛が刻んだ美しい像に調和する思想や行為にしか、喜びを見出さなくなる。そして魂が浴する青春の泉は、力と喜悦との潔《きよ》い光輝は、麗わしくかつ有益であって、人の心をますます偉大ならしむるものである。
 知友たちから誤解されてることは、彼の心に憂苦を満さした。しかし最も重大な憂苦は母親までが心配し始めたことであった。
 この善良な婦人は、フォーゲル一家の偏狭な主義を共に奉じてはいなかった。彼女はあまり目近に真の悲しみを見てきたので、他の悲しみを想像し出そうとはしなかった。自分を卑下し、生活に困憊《こんぱい》し、生活からたいした喜びも受けず、生活に喜びを求めることはさらに
前へ 次へ
全74ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング