攻撃するのは、卑劣な仕業《しわざ》だということ。
フォーゲル夫人は大声をたてた。かつてだれからも、そんな調子で物を言われたことがなかった。小僧っ子から――しかも自分の家で――説諭を受けるものかと彼女は言った。そして彼を侮辱的な態度で取扱った。
喧嘩《けんか》の声を聞きつけて、他の人たちもやって来た――ただフォーゲルを除いて。フォーゲルは自分の健康の害になるようなことはいつも避けていたのである。オイレル老人は、立腹してるアマリアから介添人に立てられて、将来は意見や訪問は差控えてもらいたいとクリストフにきびしく頼んだ。自分たちは彼の助言をまたずともなすべきことを知っており、義務を果しており、常に義務を果すだろう、と言った。
クリストフは出て行くと言い、もう二度と足を踏み入れるものかと公言した。けれども彼は、自分にとっては直接身辺の敵となってる例の「義務」について、心ゆくまで彼らに言ってやらないうちは、決して出て行かなかった。そんな「義務」を云々《うんぬん》するなら、自分はむしろ悪徳の方を好むだろう、と彼は言った。フォーゲル一家のような人たちこそ、しきりに善を不愉快なものにしながら、善をみだすものであった。彼らとの対照によってこそ人は、不徳義ではあってもしかし愛想のいいにこやかな人たちに、誘惑を感ずるのであった。ついには生活を陰鬱《いんうつ》にし害毒するほどの堅苦しい横柄な厳格さで、つまらない雑役や取るに足らぬ行いなど、すべてに、義務という言葉を通用するのは、かえって義務の名を涜《けが》すものである。義務は特殊なものである。実際の献身の場合のために、それは保留しておかなければいけない。自分の不機嫌《ふきげん》や、他人を不快がらせようとする欲望などを、義務の名で覆《おお》ってはいけない。自分が愚かにもまたは不面目にも陰気だからと言って、すべての人が陰気であるようにと願い、すべての人に自分の不具な摂生法を強いんとするのは、理由のないことである。美徳のうちで第一のものは、喜悦である。美徳は、幸福な自由なこだわりのない顔つきをしていなければいけない。善をなす者は、みずから自身を喜ばせなければいけない。しかるに、フォーゲル一家のいわゆる常住不断の義務、小学校教師みたいな圧制、やかましい口調、役にもたたない議論、不快な幼稚な理屈、喧騒《けんそう》、優雅の欠乏、あらゆる魅力と礼節と沈黙とを欠いた生活、生存を萎微《いび》させるようなものはなんでも取上げる浅薄な悲観思想、他人を理解するよりも軽蔑《けいべつ》する方を易《やす》しとする傲慢《ごうまん》な非理知、すべてそれらの、偉大さも幸福も美もない凡俗な道徳、それは実に醜悪な有害なものである。それは実に、美徳よりも悪徳の方に、いっそう人間的な観を与えさせるものである。
そういうふうにクリストフは考えていた。そして自分を傷つけた者を傷つけ返してやりたいという欲求に駆られて、自分も相手の人たちと同様に間違ってるということには気づかなかった。
もちろんこの憐《あわ》れな人たちは、ほとんど彼の観察どおりであった。しかしそれは彼らの罪ではなかった。彼らの顔つきや態度や思想を不愛想ならしめてしまった、不愛想な生活の罪であった。彼らは悲惨から――一挙に落ちかかって人を殺すかあるいは鍛えるかする大悲惨からではなく――たえずくり返される不運、最初の日から最後の日に至るまで一滴ずつ落ちてくる小さな悲惨から、変化されてしまっていた……。なんと悲しむべきことであるか! なぜなら、それらの粗硬な表皮の下には、方正や善良や無言の勇気など、いかに多くの宝がたくわえられていたことだろう!……一民衆の力が、未来の活気が!
クリストフが義務は特殊なものだと信じたのは、誤りではなかった。しかし恋愛もやはり特殊なものである。すべてが特殊である。何かに価するすべてのものは皆――悪でさえもやはり(悪にも価値がある)――常習ということより以上の敵を有しない。魂の致命的な敵は、毎日の消耗である。
アーダは倦怠《けんたい》し始めていた。クリストフの性質のように豊富な性質の中で、自分の愛を更新してゆくには、彼女は充分の知力をそなえていなかった。彼女の官能と浮華的な精神とは、およそ見出し得るかぎりの快楽を愛から引出してしまっていた。もはや愛を破壊する快楽しか残ってはいなかった。彼女は一種のひそかな本能をもっていた。それは多くの女に、善良な女にも、また多くの男に、怜悧《れいり》な男にも、共通な本能であって、この本能をそなえた男女は、仕事もせず、子供もこしらえず、活動もせず――いかなることをも、生活をもせず――しかも、あまりに多くの活力をもっているので、おのれの無用さを堪え忍ぶこともできないのである。彼らは他人も自分らと同じく無用ならんことを望
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