つことにした。アーダはもう自分のものだと見てとると、そのうえ優勢に乗ずることをしなかった。彼女の振舞は、朋輩を不愉快がらせようとするのが重《おも》であった。彼女はそれに成功した。満足だった。しかしその戯れに、彼女はみずから引っかかった。クリストフの眼の中に、彼女は自分が煽《あお》りたててやった情熱を感じた。そしてその情熱は、彼女のうちにも燃えてきた。彼女は口をつぐんだ。下等な揶揄《やゆ》をやめた。二人は黙って顔を見かわした。口の上には接吻《せっぷん》の味が残っていた。時々にわかに元気を出して、他の人達の冗談に騒々しく口を出した。それからまた黙り込んでは、そっと顔を見合った。しまいには人に気づかれるのを恐れるかのように、もう見かわしもしなかった。自分のうちにくぐまり込んで、情欲をかきいだいていた。
 食事が終ると、一同は出かけることにした。乗船場まで行くには、林をつき切って二キロメートル歩かなければならなかった。アーダはまっ先に立上った。クリストフはそのあとにつづいた。二人は他の人々の仕度ができるのを待ちながら、表の石段の上にたたずんだ――飲食店の門前にともされたただ一つの軒燈の光が、ぽつりと差してる浅い霧の中に、無言のまま相並んで……。
 アーダはクリストフの手を取り、家の横を、庭の暗闇《くらやみ》の方へ引張っていった。茂るに任せた葡萄蔓《ぶどうづる》が一面にたれさがってるバルコニーの下に、二人は身を潜めた。あたりは重い闇だった。二人は相手の顔も見えなかった。風が樅《もみ》の梢《こずえ》を揺すっていた。彼は自分の指にからんでるアーダの生あたたかい指を感じ、彼女が胸にさしている一輪のヘリオトロープの香《かお》りを感じた。
 にわかに彼女は彼を引寄せた。クリストフの口は、霧にぬれたアーダの髪に触れ、彼女の眼や睫毛《まつげ》や小鼻や脂肪太りの頬骨《ほおぼね》に接吻し、口の角に接吻し、唇《くちびる》を捜し求めて、そこにじっと吸いついた。
 他の者たちも出て来ていた。彼らは呼んでいた。
「アーダさん!……」
 二人はじっとしていた。たがいに抱きしめながら、息を凝らしていた。
 ミルハの声が聞えた。
「先に行ったのよ。」
 仲間の者の足音は、闇の中を遠ざかっていった。二人はたがいになお強く抱きしめて、熱烈な囁《ささや》きも唇《くちびる》から漏れる余地がなかった。
 村の大時計が遠くで鳴った。二人は抱擁から身を離した。乗船場へ大急ぎで駆けつけなければならなかった。二人は無言のまま、腕と手とを組み合せ、たがいに歩調を合せながら出かけた――彼女の気性どおりの素早いてきぱきした小足で。街道は寂しかった。平野に人影もなかった。十歩と先は見えなかった。二人は好ましい闇夜の中を、晴やかな安心しきった心地で歩いていった。道の小石につまずきもしなかった。遅れていたので近道をとった。小道は葡萄《ぶどう》畑の間をしばらく降りたあとに、また上り坂になり、丘の中腹を長くうねっていた。霧の中に河の音が聞え、近づいて来る船の推進輪の高い響きが聞えてきた。二人は道を捨てて畑の中を駆けだした。ついにライン河の岸に着いた。しかし乗船場まではまだかなりあった。それでも二人の晴やかな気持は変らなかった。アーダは夕の疲労をも忘れていた。二人はそのまま、月の光のように仄《ほの》白く浮出してる河に沿うて、ますます湿っぽくますますこまやかに漂っている靄《もや》の中を、ひっそりしてる草の上を、夜通しでも歩けられそうな気がしていた。船の汽笛が鳴って、その眼に見えない怪物は重々しく遠ざかっていった。二人は笑いながら言った。
「次のに乗りましょう。」
 河の渚《なぎさ》には、静かな余波が二人の足下に砕けていた。
 乗船場に行くと、こう言われた。
「しまいの船が出たばかりです。」
 クリストフは胸にどきっとした。アーダの手はいっそう強く彼の腕を握りしめた。
「いいわ!」と彼女は言った、「明日《あした》になったら出るでしょう。」
 数歩向うに、河岸《かし》の高壇《テラース》にある柱に、角燈がさがっていて、霧の暈《かさ》の中にぼーっと光っていた。その少し先に、二、三の明るいガラス窓が見えて、一軒の小さな宿屋があった。
 二人は狭い庭にはいった。歩くと砂が音をたてた。手探りで階段が見つかった。中にはいると、燈火が消され始めていた。アーダはクリストフの腕にすがりながら、室を一つ求めた。二人が通された室は、庭に面していた。クリストフは窓からのぞき出した。見ると、河《かわ》は燐光《りんこう》のように浮出しており、角燈が眼のように光っていて、そのガラスに大きな翼の蚊がぶっつかっていた。扉《とびら》はしめられた。アーダは寝台のそばに立って、微笑《ほほえ》んでいた。彼は彼女の方を見られなかった。彼女も彼を見てはい
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