れたのを怒った。彼らを厄介払いしようとしてはいたが、しかし彼らにそうやすやすと思い切られたことが許せなかった。クリストフは馬鹿《ばか》げた顔つきをしていた。見知らぬ娘といっしょにやった隠れん坊の遊びが、たいして面白くもなかった。そして二人きりなのに乗じようとも考えてはいなかった。彼女も別にそうしようとは考えていなかった。腹だちまぎれにクリストフのことなんか忘れていた。
「まあ、ずいぶんひどい。」と彼女は手を打ちながら言った。「こんなに置いてきぼりにするなんて!」
「でも、」とクリストフは言った、「自分で望んだことでしょう。」
「いいえちっとも!」
「自分で逃げたでしょう。」
「私が逃げたって、それは私一人のことで、あの人たちの知ったことじゃないわ。あの人たちは私を捜してくれなけりゃならないはずだわ。もしも私が道にでも迷ったんだったら……。」
 もしも……もしも事情が反対だったら、どんなことになっていたろうかと、彼女ははや心細がっていた。
「そう、少し責めてやらなくっちゃ!」と彼女は言った。
 彼女は大跨《おおまた》に引返した。
 道の上に出ると、彼女はクリストフのことを思いだして、また彼をながめた。――しかしもう時遅れだった。彼女は笑いだした。先刻彼女のうちにいた小さな悪魔は、もういなくなっていた。彼女はほかのがも一匹やって来るのを待ちながら、無関心な眼でクリストフをながめていた。それにまた、彼女は腹がすいていた。胃袋の加減で、夕飯時なのを思い出していた。飲食店で連れの者たちといっしょになろうと急いでいた。彼女はクリストフの腕をとらえ、力いっぱいにもたれかかり、しきりに吐息をつき、疲れ果てたと言った。それでもやはり、狂人のように叫んだり笑ったり駆けたりしながら、クリストフを引張って坂道を降りていった。
 二人は話しだした。彼女は彼がどういう者であるか知った。しかし彼女は彼の名前を知っていなかった。そして彼の音楽家たる肩書にたいして敬意を払わないらしかった。彼の方でも彼女のことを知った。カイゼル街(町の最もりっぱな通り)のある化粧品商の店員で、名前はアーデルハイト――友だち仲間ではアーダ、であった。その散歩の仲間は、同じ商店に働いてる朋輩《ほうばい》の一人と、二人のりっぱな青年だった。青年の一人はヴァイレル銀行員で、も一人はある大きな流行品商の事務員だった。彼らは日曜を利用したのであって、ライン河の美景が見られるプロヘット飲食店で晩餐《ばんさん》をし、それから船で帰るつもりにしていた。
 二人が飲食店に着いた時、一同はもうそこにすわり込んでいた。アーダは一同を責めたてないではおかなかった。卑劣にも置きざりにしたことを彼らに不平言い、そしてこの人に助けてもらったのだと言ってクリストフを紹介した。彼らはアーダの苦情はいっこう構いつけなかった。しかし彼らはクリストフのことを知っていた。銀行員は評判を耳にしていたし、事務員は二、三の楽曲を聞いたことがあった――(彼はすぐに得意然とその一節《ひとふし》を口ずさんだ。)そして彼にたいする彼らの尊敬の様子は、アーダに感銘を与えた。そのうえ、も一人の若い女ミルハ――(実際はヨハンナという名前だったが)――栗《くり》色髪の女で、始終眼をまたたき、額が骨たち、前髪を引きつめ、その支那の女みたいな顔は、多少渋めがちではあったが、しかし利口そうでちょっとかわいく、山羊《やぎ》みたいな面影があり、脂気《あぶらけ》の多い金色の皮膚をしていた――それが急に宮廷音楽員[#「宮廷音楽員」に傍点]をちやほやしだしたので、アーダはなお感銘を受けた。一同は晩餐御同席の栄を得たいと彼に願った。
 彼はかつてそういう供応に臨んだことがなかった。各人がきそって彼を尊敬した。二人の女が、仲よく彼を奪い合った。二人とも彼の気を迎えた――ミルハは、大仰な様子と狡猾《こうかつ》な眼つきをして、食卓の下で彼に膝頭《ひざがしら》をつきつけながら――アーダは、美しい瞳《ひとみ》や美しい口や、すべてその美しい身体のあらゆる誘惑の種を、厚かましく働かせながら。そしてやや露骨すぎるそういう嬌態《きょうたい》は、クリストフを当惑させ悩ました。それらの大胆な二人の娘は、ふだん家で彼をとり巻いてる無愛想な人々の顔つきとは、まったく別種の観があった。彼はミルハに興味を覚えた。彼女の方がアーダよりも怜悧《れいり》だと推察した。しかしそのひどく阿諛《あゆ》的なやり方と曖昧《あいまい》な微笑とには、好悪《こうお》の入り交った気持を起こさせられた。彼女はアーダから発する喜悦の光輝にたいしては、匹敵し得なかった。そして彼女もよくそれを知っていた。勝負は自分の方が負けだと見てとると、彼女は強《し》いて頑張《がんば》らずに、ただ微笑《ほほえ》みつづけ、気長に好機を待
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