ょうだいな。降りられなくなったから……。」
彼はもどってきた。どうして上ったかと尋ねた。
「手足で……上るのはいつもやさしいものよ……。」
「うまそうな果物《くだもの》が頭の上にぶらさがってる時には、なおさらでしょう。」
「ええ……でも食べてしまうと、がっかりするわ。もうどこから降りていいかわからなくなってしまうわ。」
彼はそこにとまってる彼女をながめた。そして言った。
「そうやってるとよく似合いますよ。そこにじっとしていらっしゃい。また明日《あした》見に来ます。さよなら!」
しかし彼は彼女の下にたたずんで、動かなかった。
彼女は恐《こわ》がってるふうをした。そしてかわいい顔つきで、置きざりにしないようにと願った。二人は笑いながら、そのまま顔を見合っていた。彼女はつかまってる枝を彼にさし示しながら言った。
「あげましょうか。」
所有権にたいするクリストフの尊重の念は、オットーとともに彷徨《ほうこう》していたころよりも、少しも発達していなかった。彼は躊躇《ちゅうちょ》なく承諾した。彼女は彼に梅の実を投げつけながら面白がった。
彼が食べてしまうと、彼女は言った。
「さあこれで!……」
彼はなお待たして意地悪くうれしがった。彼女は壁の上でじれったがっていた。ついに彼は言った。
「さあ!」
そして彼は腕を差出した。
しかし飛び降りようとする時になって彼女は考え直した。
「待ってちょうだい! 先に食べ物を取込んでおかなくちゃならないわ。」
彼女は手の届くかぎりのりっぱな梅の実を摘み取って、ふくらんだチョッキにいっぱいつめた。
「用心してくださいよ。つぶしちゃいけないわよ。」
彼はつぶしてやりたいほどだった。
彼女は壁の上に身をかがめ、彼の腕に飛び込んだ。彼は頑丈《がんじょう》ではあったが、その重みをささえかねて、彼女とともに後ろざまに倒れかけた。二人は同じくらいな身長だった。顔が触れ合った。梅の汁《しる》にぬれた甘い唇《くちびる》に、彼は接吻《せっぷん》した。彼女も同じく無遠慮に接吻を返した。
「どこへ行くんです?」と彼は尋ねた。
「わからないわ。」
「一人で散歩してるんですか。」
「いいえ。友だちといっしょなの。でも見失ってしまったのよ。……おーい!」と彼女はいきなり精いっぱいに呼び声をたてた。
何の答えもなかった。
彼女は別にそれを気にもかけなかった。二人はどこへともなくただまっすぐに歩き出した。
「そしてあなたは、どこへいらっしゃるの?」と彼女は言った。
「僕もわからないんです。」
「ちょうどいいわ。いっしょに行きましょう。」
彼女は少しはだけてるチョッキから梅の実を取出して、それをかじりだした。
「毒になりますよ。」と彼は言った。
「いいえちっとも。いつも食べてるのよ。」
チョッキの隙間《すきま》から彼は彼女の肌襦袢《はだじゅばん》を見ていた。
「もうすっかりあたたかになっちゃったわ。」と彼女は言った。
「どれ!」
彼女は笑いながら彼に一つ差出した。彼はそれを食べた。彼女は子供のように梅の実をすすりながら、横目で彼をながめていた。彼にはこの出来事がしまいにどうなるかよくわからなかった。が彼女には少なくとも多少の見当はついていた。彼女は待っていた。
「おーい!」と林の中で叫ぶ声がした。
「おーい!」と彼女は答えた。「……あらいたわ、」とクリストフに言った、「まあよかった。」
彼女は反対に、かえって悪いと考えていた。しかし女にとっては、言葉というものは考えどおりのことを言うために与えられたものではない。……ありがたいことだ! もしそうでなかったら、地上にはもはや道徳が存し得なくなるだろう。
人声は近づいてきた。連れの者たちが道に出て来るところだった。彼女は一飛びに路傍の溝《みぞ》を踊り越し、その土手によじ上り、木立の後ろに隠れた。彼はびっくりして彼女のすることをながめていた。彼女は来いと強く相図をした。彼はあとについていった。彼女は林の中の方にはいり込んでいった。
「おーい!」と彼女は連れの者たちがかなり遠くなった時にふたたび言った。「……少し捜さしてやらなきゃいけないわ。」と彼女はクリストフに言ってきかした。
連れの者たちは道の上に立止って、どこから声が響いてくるのか耳を傾けた。彼らは彼女の声に答えて、つづいて林の中にはいってきた。しかし彼女は待っていなかった。右に出たり左に出たりして面白がった。彼らは喉《のど》を涸《か》らして呼んでいた。彼女はそのままにさしておいて、それから反対の方へ行って呼んだ。ついに彼らは疲れてしまった。彼女を出て来させる最上の策は、少しも捜してやらないことにあるのだと信じて、こう叫んだ。
「さようなら!」
そして歌いながら去っていった。
彼女は彼らにほったらかさ
前へ
次へ
全74ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング