なかったが、しかし睫毛《まつげ》越しに、彼の一挙一動をうかがっていた。床板は歩くたびにきしった。家の中のかすかな物音まで聞えた。二人は寝台の上にすわって、無言のまま相|抱《いだ》いた。

 庭のちらつく燈《ともしび》は消えた。すべてが消えた……。
 夜……淵《ふち》……光もなく、本心もなく……ただ「存在」が。「存在」の陰闇《いんあん》貪欲《どんよく》な力。無上に力強い喜悦。張り裂けるばかりの喜悦。空虚が石を吸い込むように、全身を吸い込む喜悦。あらゆる考えを吸い尽す情欲の渦巻《うず》。暗夜のうちに転々する陶酔せる世界の、狂暴|無稽《むけい》なる「法則」……。
 夜……相交る息、溶け合う二つの身体の金色の生あたたかさ、いっしょに陥ってゆく恍惚《こうこつ》の深淵《しんえん》……幾多の夜を含む夜、幾多の世紀を含む時間、死を含む瞬間……共にみる夢、眼を閉じてささやく言葉、半ば眠りながら捜し合う素足の、やさしいひそやかな接触、涙と笑い、万事を空にして愛し合い、また虚無の眠りを分ち合う、その幸福、脳裏に浮ぶ雑然たる物象、鳴りわたる夜の幻影……。ライン河は、家の下の入江に、ひたひたと音をたてている。遠くには、巌《いわお》に打ちつけるその波が、砂上に降る小雨のように響いている。乗船台は水の重みに、きしりうなっている。それをつなぎ止める鎖は、古い鉄|屑《くず》のような音をたてて、伸び縮みしている。河の音が高まって、室の中いっぱいになる。寝台は舟のように思われる。二人は相並んで、眼くらむばかりの流れに運ばれる――空|翔《かけ》る小鳥のように、空虚のうちに浮かびながら。夜はますます闇《やみ》となり、空虚はますますむなしくなる。二人はたがいにますますしかと抱きしめる。アーダは泣き、クリストフは意識を失い、二人とも暗夜の波の下に沈んでゆく……。
 夜……死……。何故に蘇《よみがえ》るの要があろう?……
 夜明けの光が、ぬれた窓ガラスをかすめる。生命の光が、懶《ものう》い身体の中にまたともってくる。彼は眼を覚《さま》す。アーダの眼が彼を見ている。二人の頭は同じ枕の上にもたれている。二人の腕はからみ合っている。二人の唇《くちびる》は相触れている。全生涯が数分間のうちに過ぎてゆく、太陽と偉大と静安との日々……。
「私はどこにいるのか? そして私は二人なのか? 私はまだ存在しているのか? 私はもはや自分の一身を感じない。無限が私をとり巻いている。オリンポスの平安に満ち充《み》ちた静かな大きい眼をしてる彫像、それの魂を私は今もっている……。」
 二人はまた眠りの時代に陥ってゆく。そして耳慣れた曙《あけぼの》の音が、遠い鐘、過ぎゆく小舟、水のしたたる二本の櫂《かい》、道行く人の足音が、二人に生きてることを思い起こさせながら、それを二人に味わわせながら、そのまどろめる幸福を、乱すことなく愛撫《あいぶ》してゆく……。

 窓の前に船の音がしてきたので、うとうとしていたクリストフは我れに返った。きまった職務の間に合うように町へ帰るため、七時には出かけようという約束だった。彼はささやいた。
「聞こえるだろう?」
 彼女は眼を開かなかった。ただ微笑《ほほえ》んで、唇を差出し、元気を出して彼を抱擁し、それからまた頭を彼の肩の上に落した。……窓ガラスから彼は、船の煙筒や、人なき甲板や、ほとばしり出る煙が、白い空にすべってゆくのを見た。彼はまたうっとりとした……。
 気づかないうちに一時間たった。時計の音を聞いて、彼ははっとした。
「アーダ……、」と彼は女の耳にささやいた、「ね、アーダ、」と彼はくり返した、「八時だよ。」
 彼女はなお眼を閉じたまま、不機嫌《ふきげん》そうに眉《まゆ》と口とを渋めた。
「眠らしてちょうだいよ。」と彼女は言った。
 そして彼の腕から身を離し、疲れはてた溜息《ためいき》を漏らしながら、彼に背を向け、向う向いたまままた眠った。
 彼は彼女の傍《かたわ》らに寝ていた。同じあたたかさが二人の身体を流れていた。彼は夢想にふけり始めた。血潮は穏かな大きい波をなして流れていた。清朗な感覚は微妙な清新さでごくわずかな印象をも感じていた。彼は自分の力と青春とを楽しんだ。男子たるの誇りを感じた。自分の幸福に微笑《ほほえ》んだ。そして自分の孤独を感じた、いつものとおりの孤独を、おそらくはなおいっそうの孤独を。しかしなんらの悲哀もなく、崇高な寂寥《せきりょう》の孤独だった。もはや熱気もなかった。もはや陰影もなかった。自然は彼の朗らかな魂のうちに自由に反映していた。仰向けに横たわり、窓に面し、輝く霧を含んだまぶしい空気の中に眼をおぼらして、彼は微笑んだ。
「生きることはなんといいことだろう!……」
 生きる!……一|艘《そう》の小舟が通った。……彼は突然、もう生きていない人たち
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