飽き飽きしていた。音楽を好まないでかつ好まないと口に言うことは、ほとんど一つの美徳のようにさえ彼には思えた。彼はまたザビーネに、書物を読むかどうか尋ねた。
――読まなかった。第一書物をもっていなかった。
彼は自分の書物を貸してやろうと言った。
「真面目《まじめ》な御本でしょう?」と彼女は不安そうに尋ねた。
――厭《いや》なら、真面目な書物でないのを。詩集を。
――でも詩集なら真面目な書物である。
――では小説を。
彼女は口をとがらした。
――小説には興味がなかったのか?
――否。興味はあった。しかしそれはいつも長すぎた。かつて終りまで読み通す根気がなかった。初めの方を忘れるし、章を飛ばして読むし、もう少しもわからなくなった。すると書物を投げ出してしまうのだった。
――なるほど興味を感じてるりっぱな証拠だった!
――なあに、嘘《うそ》の話はそれくらいの読み方で沢山《たくさん》だった。書物より他のことに興味を取っておいたのだった。
――おそらく芝居へか?
――否々。
――芝居へは行かなかったのか?
――行かなかった。芝居は暑すぎた。あまり人が多すぎた。家にいる方がよかった。光が眼に毒だし、役者がいかにも醜い!
その点については彼も同意見だった。しかし芝居にはまだ他のものがあった、すなわち脚本が。
「ええ。」と彼女は気のりしないような調子で言った。「でも私には隙《ひま》がありませんもの。」
「朝から晩まで何をすることがあるんですか。」
彼女は微笑《ほほえ》んでいた。
「沢山《たくさん》することがありますのよ。」
「なるほど、」と彼は言った、「店がありましたね。」
「あら、店なんか、」と彼女は平気で言った、「たいして忙しくはありません。」
「ではお嬢さんのために隙がないんですか。」
「いいえ、娘なんか! たいへんおとなしくって、一人で遊んでいます。」
「では?」
彼はそういう不謹慎な追及を詫《わ》びた。しかし彼女は面白がっていた。
――沢山《たくさん》のことが、それは沢山のことがあった。
――何が?
――一々言うことができないほどだった。あらゆる仕事があった。起き上り、身じまいをし、昼食のことを考え、昼食をこしらえ、昼食を食べ、夜食のことを考え、少し室を片付け……そんなことばかりでも、もう昼は暮れてしまった……。それにまた、何にもしない時間も少しはなければならなかった……。
「退屈ではありませんか?」
「いいえ、少しも。」
「何にもなさらない時でも?」
「何にもしない時がいちばん退屈しませんわ。かえって何かする時の方が退屈しますわ。」
二人は笑いながら顔を見合った。
「あなたはほんとに幸福ですね!」とクリストフは言った。「私は何にもしないということをまだ知りません。」
「よく御存じだと私は思っていますのに。」
「四、五日前からようやくわかりかけたんです。」
「では今によくおわかりになりますわ。」
彼女と話をすると、彼は心が和《やわ》らぎ休らうのを感じた。ただ彼女と会うだけでも十分だった。不安だの、焦燥だの、心をしめつける苛《い》ら苛らした懊悩《おうのう》から、解放された。彼女と話してる時には、なんらの惑いもなかった。彼女のことを想《おも》ってる時には、なんらの惑いもなかった。彼はみずからそうだとは認めかねた。しかし彼女のそばにゆくとすぐに、快いしみじみとした安楽を覚え、ほとんどうつらうつらとしてきた。夜は、今までになくよく眠れた。
仕事の帰りがけに、彼はよく店の中をちらりとのぞき込んだ。ザビーネを見かけないことはめったになかった。二人は微笑《ほほえ》みで会釈をした。時とすると、彼女は入口にいたので、数話をかわすこともあった。あるいはまた、彼は戸を少し開いて、娘を呼び、ボンボンの小箱をその手に握らしてやった。
ある日、彼は思い切って中にはいった。チョッキのボタンがいると言った。彼女はそれを捜し始めた。しかし見つからなかった。あらゆるボタンがごっちゃになっていた、一々見分けることができないほど。彼女はその乱雑さを見られるのを少し当惑した。彼はそれを面白がって、なおよく見るために珍しそうにのぞき込んだ。
「厭ですよ!」と彼女は言いながら、両手で引き出しを隠そうとした。「のぞいちゃいけません。ごちゃごちゃですもの……。」
彼女は捜し始めた。しかしクリストフは彼女をじらした。彼女は癇癪《かんしゃく》を起して、引き出しをしめてしまった。
「見つからないわ。」と彼女は言った。「次の街路《まち》のリージさんのところへいらっしゃいな。きっとありますわ。あすこならなんでもありますよ。」
彼はその商売ぶりを笑った。
「あなたはそんなふうに、客をみんな向うへやってしまうんですか。」
「ええ、これが初めての
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