ことじゃありませんわ。」と彼女は快活に答えた。
 しかし彼女は多少きまりが悪かった。
「片付けるのはほんとに厭ですもの。」と彼女は言った。「一日一日と片付けるのを延ばして……でも明日《あした》はきっとしますわ。」
「手伝ってあげましょうか。」とクリストフは言った。
 彼女は断った。承知したくはあったが、人から悪口を言われそうなので承知しかねた。それにまた、面目なかった。
 二人は話しつづけた。
「そしてボタンは?」と彼女はやがてクリストフに言った。「リージさんのところへいらっしゃらないんですか。」
「行くもんですか。」とクリストフは言った。「あなたが片付けるのを待っています。」
「あら、」とザビーネは今言ったことをもう忘れて言った、「そんなにいつまでも待っちゃいけません!」
 その心からの叫びが、二人を快活になした。
 クリストフは彼女がしめた引き出しに近づいた。
「僕に捜さしてください。」
 彼女はそれを止《と》めようとして、駆け寄った。
「いえ、いえ、どうぞ。確かにありませんのよ……。」
「ありますとも、きっと。」
 すぐに彼は、得意然としてほしいボタンを引き出した。なお他にも要《い》るボタンがあった。彼はつづけて捜そうとした。しかし彼女はその手から箱をひったくって、自負心から自分で捜し始めた。
 日は傾いていた。彼女は窓に近寄った。クリストフは数歩離れて腰をおろした。娘がその膝《ひざ》に上ってきた。彼は娘のおしゃべりを聞いてるふうをし、気のない返辞をしながら、ザビーネをながめていた。彼女も見られてるのを知っていた。彼女は箱の上にかがみ込んでいた。その頸《くび》筋と頬《ほお》が少し彼の眼にはいった。――そして彼女をながめているうちに、彼女が赤くなってるのに気づいた。彼も赤くなった。
 子供はしきりにしゃべっていた。だれもそれに答えなかった。ザビーネはもう身動きもしなかった。クリストフは彼女が何をしてるかを見なかった。彼には、彼女が何にもしていないことが、手にもってる箱をもながめていないことが、よくわかっていた。沈黙が長くつづいた。小娘は心配になって、クリストフの膝からすべりおりた。
「なぜ何にも言わないの?」
 ザビーネはにわかにふりむいて、娘を両腕に抱きしめた。箱は下に落ちた。娘は喜びの声をあげて、家具の下にころがってゆくボタンを、四つばいになって追っかけた。ザビーネは窓のそばにもどって、窓ガラスに顔を押しあてた。外の景色に見とれてるふうをした。
「さよなら。」とクリストフは途方にくれて言った。
 彼女は頭も動かさなかった。そしてごく低く言った。
「さよなら。」

 日曜の午後は、家の中ががらんとしていた。皆が教会堂へ行って、晩課を聞いていた。ザビーネは少しも行かなかった。ある時、美しい鐘の音がしきりに呼びたてるのに、彼女は小さな庭の戸の前にすわっていたが、それを見つけたクリストフは、冗談に彼女を責めてやった。彼女は同じ冗談の調子で、ミサだけが義務的なものであると答えた。晩課はそうではなかった。それであまり熱心になりすぎるのは無駄なことだし、不謹慎なことでさえあった。そして神は自分を恨むどころかかえってありがたがっていられるだろうと、彼女は好んで考えていた。
「あなたは自分にかたどって神をこしらえてるんです。」とクリストフは言った。
「神様になったら、私はさぞ退屈するでしょう。」と彼女は思い込んだ調子で言った。
「あなたが神になったら、あまり世間のことにはかかわらないでしょうね。」
「私が神様にお願いしたいことは、私を構ってくださらないようにということだけですわ。」
「そんならいくら願ったって悪いことになりようはないでしょう。」とクリストフは言った。
「しッ!」とザビーネは叫んだ、「不信心なことを言っていますわ。」
「神があなたに似ていると言っても、それが不信心なことだとは私は思いません。神はきっと喜ばれるに違いありません。」
「もうよしてくださいよ!」とザビーネは言った。半ば笑い半ば気にしていた。神様が怒りはすまいかと気づかい始めていた。彼女は急いで話題を変えた。
「それに、」と彼女は言った、「気楽に庭をながめることができるのも、一週間のうちに今だけですわ。」
「そうです。」とクリストフは言った。「あの人たちがいませんから。」
 二人は顔を見合った。
「ほんとに静かですこと!」とザビーネは言った。「めったにないことですわ……なんだか変な気分がしますわ……。」
「ああ、」とにわかにクリストフは憤然と叫んだ、「あいつを絞め殺してやりたいと幾度思ったかしれない!」
 だれのことを言ってるのか説明するに及ばなかった。
「そして他の人は?」とザビーネは快活に尋ねた。
「なるほど、」とクリストフはがっかりして言った、「ローザもいる
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